小説

M A S K - 1


10分前。
時計を何度も確認する。
ビルの1階に構えるコーヒーショップ。

東京に出てきて初めて掴んだ、田舎娘だった頃からの夢。
最近になってその叶え方がわかった。

女優。
今はその他大勢の端役。
次は台詞のある役。
それから、主役の近くに現れる役。
ゆくゆくはエンドロールの先頭、もしくは最後に名を連ねる。
なれるのは、ほんの一握り。
絶対にその中に入る。


今日は、そのための大事な日。
事務所の人から、「オーディションに受かった」との電話。
主人公の同級生という設定。
漫画が原作になっているドラマ。
昔、読んでた。
確か、主人公を囲んで歩くうちの一人。

そんなことはどうでもいい。
台詞があって、出番があって、何より、エンドロールに私の名前が表示される役。
ようやく、その他大勢から抜け出せる。

そのことで呼び出された。
待ち合わせまで、あと5分。

体に緊張が走る。
携帯電話に連絡が入っていないかを確認し、周囲を見渡す。

まだ来ない。
アイスコーヒーに目を落とす。
席についてから、まだ一口もつけていない。
グラスの側面から水滴が流れるのを見やる。

もうそろそろ来てもいい頃なのに。


突然、背後から肩を叩かれた。

「幸穂じゃね?」

M A S K - 2


振り向きそうになる首を自制する。

もう聞くことはないと思っていた声。

昔の私を知っている男。
私の行く手を何度となく阻み続けた男。

もう、切れたものだと思っていた。
まさか、こんなところにいるなんて。


「人違いです。」
体の奥底から搾り出した嘘。


「は?何馬鹿言ってんの。深川幸穂だろ。」
「違います。」
「じゃあ、何て名前だよ。」
「藤下ユヅキ。」

芸名。上京後の、今の私の名前。
決して偽名ではない。


「嘘付くなよ。俺の女だった癖にさぁ。」
誰もいない、目の前に座り、嫌らしい目を近づけてくる。
思わず顔を横に背ける。


付き合っていたことはあった。
けれども、半年と持たなかった。
原因は、私が疲れたから。
次第に壊れていくのが怖くて仕方がなかったから。


「次は漫画の登場人物で偽名か。幸せの穂で『サチホ』が本当の名前だろ。」

事務所の人と考えた、大切な名前。
優しい月でユヅキ。
それから、苗字は母親の旧姓。
思いつきで名乗ってなんかいない。

俯き、閉じた唇に力を込める。


「じゃあさ、証拠は?」

「え?」

「だから証拠。あんたの名前が藤下ユヅキさんって証拠だよ。」

「そんなもの、持っているわけ・・・。」
バッグの中に入っている、保険証、銀行のカード。
全て、本名。
この場で出せるわけがない。


「わかりやすい嘘なんか付くんじゃねぇよ。」

テーブルの脚を蹴り付ける。

はっと息を呑む。
動悸がする。
鏡を見るまでもなく、顔が青ざめていくのがわかる。

誰か助けて。

その時、バッグの底から、携帯電話が小刻みに揺れた。

M A S K - 3


バッグを抱えたまま、店内のトイレに向かう。
立ち上がった瞬間、伸びかけた腕が見えた。
しかし、私が店を出ないとわかると、その手を上に伸ばし、左右に軽く手を振った。

席に戻ったら捕まえる気だ。
どこまでの嫌な男。

都合よくというべきか、トイレに先約はいなかった。

ここならあの男は入ってこない。
ドアの鍵を閉め、誰も入ってこないことを確認してから、バッグの底に手を伸ばす。
見覚えのある番号に藁をも縋る気持ちでボタンを押す。

「待たせちゃってごめんね。」
聞き覚えのある声に、安堵の涙を流す。

「実は・・・」
声を詰まらせながら、状況を説明する。
待ち合わせに指定された店とはいえ、あの席には戻れない。
とはいえ、あそこは入り口に近い席。
あの男に悟られずに外にでるのは不可能。


「助けて、ください。」
一時的な密閉空間の中で、救いの手を求める。

音が途切れる。
不安と期待が交じり合い、より心拍を上げていく。
鼓動で胸が痛い。

「もう少しで着くから、もうちょっとそこで持ちこたえてくれない?」
返事をする間もなく、一方的に通信は途絶えた。

入れ替わるようにして、ノックする音が耳を劈く。
ここには長くいられない。

考えを張り巡らせる。
どうすれば自然に出られるのか。
どうすればあの男から逃げられるか。


不意に鏡を見た。

涙で崩れた化粧。
女優の顔じゃない。
こんな顔では外に出られない。


頭の中で絡まっていた糸が一度に切れた。

そう。
ワタシは女優。

M A S K - 4


高校に通っていた頃から、演劇の世界にのめりこんでいた。
部活はもちろん、バイト代を貯めては、観劇のチケット代につぎ込んでいた。

あの男、もう、名前すら思い出したくない、私の中での最大の汚点と出会ったのは、高3の春。
バンドを組んでて、音楽の専門学校に通ってるとも言っていた。
でも、ライブのチケットを強引に売りつけてくるばかりで、今思えば、恋愛の対象というよりは、ただの金ヅル。
事前に予定が入っていることを伝えていたとしても、である。

おかげで、何度観たかったお芝居をキャンセルしたことか。


最初は泣きながら理由を繕っていたが、最後は完全にシカトしていた。


秋、最後の文化祭が近づき、練習に熱が入るに連れて、会うのも、連絡も取るのも億劫になってきて、文化祭の公演を前にして自然消滅した。


当時、仲良くなったバンドのメンバーを通じて、夏休みが終わった頃から他の女に乗り換えたことを知った。私はそれを自然に受け入れた。周囲の心配をよそに、あの時の私は酷く落ち着いていた。

おかげで、尾を引くことなく、夢にのめり込む事ができた。


そして今は新しい名前と女優という肩書きを盾にして演者の道を歩く。
あの男のいない、華やかな世界の上に立つ。

覚悟を決めて化粧ポーチを取り出し、部活仲間から教わったメイクを自分に施す。

マスカラとアイラインで目力を強調。
艶のある赤の口紅で、年上の女に近づく。


最後に鏡で全身を確認すると、颯爽と外に飛び出した。

M A S K - 5


「待てよ。」

レジを通過する直前で捕まった。
左肩に指が食い込む。

「お前の席はこっちだろ?」
右手の人差し指で示されたのは、さっきまで座っていたあの席。
しかも、アイスコーヒーが半分減っている。
気持ち悪い。

敢えて言葉にはせず、冷ややかな視線を飛ばす。

「悪いねぇ。口つけてないみたいだから飲んじゃった。」
"幸穂"ならその場で謝罪を要求する。
今は藤下優月という別人。
赤の他人に感情をむき出しすることに価値はない。

ワタシは女優。

「どうぞ、ご自由に。」
グラスに対して一瞥をくれた後、肩にかかった掌を振り払う。

「何するんだよ。なぁ、昔は一昼夜を供にした仲だろ?」
よくも抜け抜けと。実際、夜遅くまで一緒にいたのは、ライブの打ち上げの時だけ。
二人きりだったのは、休日の昼間しかなかった癖に。
でも、この場では初対面の人違い。

ワタシは女優。

「一昼夜・・・ねぇ。職業柄、色々な男と昼夜を問わず会っているの。仮に貴方と顔を合わせたことがあったとしても、いちいち覚えてなんかいられないわ。」
右足を踏み出す。
続けて左足も前へ運ぼうとした瞬間、体のバランスが崩れた。

その場に倒れこむ。
何が起こったのか、頭の整理がつかない。
上体を起こして見上げる。

男の腕が真っ直ぐに伸びている。
突き飛ばされた。

傍にいたアルバイト店員は、何が起こったのかわからず、オロオロしている。

「いい加減にしろよ。認めろよ。俺をバカにするなよ。」

忘れていた。
あまりにも思い通りに行かないと、癇癪を起こす。
当時、バンドのメンバーに当たることさえあった。

逃げなきゃ。
でも、ここで事務所の人が来るまで何とかして時間を稼がなければ。
こんな些細なことで、今までの努力を棒に振りたくない。
私は今の好機をすがり付いてでも守る。
そのためには手段を選んでいられない。

ワタシは女優。

「人目も気にせずに力で制圧?貴方がしたいのは、嘘の自白強要?」
ゆっくりと立ち上がり、髪を掻き揚げる。
随所に残る痛み。我慢すれば何ともない。

「通報、しますよ。」
「やれるものならやってみろよ。その名前が本当ならさぁ。」
逆効果。怯むどころか、さらに吠える。
本当に警察に連れて行ったら、何が何でも本名を名乗ることになるだろう。
ちょっとした脅しのつもりが、完全に不利になってしまった。


形勢逆転の一手が出てこない。
顔がこわばる。

正面にいる、あのにやけた顔つきから目を逸らしそうになる。
逸らしたら、真実を認めたことになる。
音を立てて崩壊する未来は絶対に嫌。

それを突きつけられるのが怖い。

「そこまで。入り口でウチの子いじめるの、やめてくれない?」
入り口の自動ドアにスーツ姿の男。

やっと来てくれた。

M A S K - 6


「お待たせ。ユヅキちゃん。前の仕事がおしちゃってさぁ。」

「井口さん!」
防衛本能から、現れたばかりの井口に抱きつく。
腕を相手の背中に絡め、頭を埋める。

「おい、その女をこっちに渡せよ。」

背後から醜い叫びが聞こえる。

「本当にあの人、知らないんです。誰かと勘違いしてるみたいで。」
腕に力を入れ、井口の体を少し圧迫する。
今さっきされた仕打ちを恐怖に変換し、肩を震わせる。

「だって。しつこい男は嫌われるよ。」
井口の腕が後ろに回り、きつく押さえつけられる。
あの男に見せ付けるためだけの、即興の恋人。

「そういえば、君、ちょっと前にゴシップネタになったよね?売り出し中の子に手を出したとかでさ。」

え?
声が漏れそうになるのを必死で堪える。

店内の、他の客に聞かせるつもりなのか、わざと大声で続ける。

「君がいたバンド、メジャーデビュー寸前だったってのに、君のスキャンダルのせいで全て白紙。苦肉の策で、君だけクビで、バンドはめでたく先日デビュー。」

知らなかった。あの男の方が先に芸能界の足がかりを作っていたなんて。
目指す方向が違うとはいえ、同じ世界にいたなんて。
脳内に落雷が落ちたかの衝撃。体が硬直する。

「他にも浮いた話は数知れず。本業はサッパリな癖してさ。」

地元にいたときからそうだった。他のメンバーの調和を乱す音。
ギター担当だっただけに、目立つことだけは忘れていない。
あの男が目立つ度に、少しだけ見えたメンバーの苦い顔が思い起こされる。

「それとその女とどういう関係があるんだよ。」
大声で喚き散らす。
まるで親の言うことを聞かない子供のよう。
たった数分のことなのに、第三者が介入するだけで、こんなにもつまらない男に成り下がるなんて。

どうして高校時代の付き合う前に見抜けなかったのだろう。


「どういうって、僕の仕事は君みたいな男から女の子を守る関係。」
「それじゃ、こいつも。」

「そういうこと。それじゃ。」

井口は私の掌を握ると、店の外へと駆け出した。

M A S K - 7


「さっきの男、案外小心者なのかもよ。虚栄心で動いているっていうかさ。」
井口の運転する車。近くの路肩にひっそりと止まっていた。
途中、何度か振り返ったけれど、追いかけてくることはなかった。


「あいつがまだバンドに所属していた頃、一度だけ仕事で観にいったことがある。」
しばらくして、独り言に近い語りかけが始まった。
エンジン音にかき消される声を一心に拾い集める。

「あそこまで空気を読まない演奏、初めて聴いたよ。他のメンバーはいい演奏してるのにさ。」

昔、地元のライブハウスで観ていたとき、同じ時間に出ていた他のバンドのファンの子が皮肉ってた。

「あのバンドのギター、演奏は素人以下だけど、パトロンが多いからチケットだけはさばけるんだって。」
「だからメンバーも手放さないんだー。そこまでしなくても十分集客できるのにね。」

あのときほど惨めな気分になったことはない。
とはいえ、毎回強引に売りつけられる現実から、それを否定する勇気を持つことができなかった。

「もし、ウチの事務所なら、最初から彼以外のメンバーで契約したかな。」
不快でしかない記憶に割り込むようにして、現在に引き戻される。
さらりと言いのけられた一言に、毒が見え隠れする。
しかし、全く冗談に聞こえない。大方、事実なのだろう。


「そうですか。私も、もしあの男と同じ事務所だったらと思うと、背筋がぞっとします。」

助手席の窓を流れる風景を眺める。
青空の中に、綿菓子のような雲がまばらに見える。

気を紛らわすにはちょうど良い。
目的地に着くまで、何も語りたくない。
あの男のことは何一つ思い出したくない。私にとっては今が一番重要なのだから。


「あの男、本当は知り合いなんだろ?」
突然の問いかけ。鋭い槍を喉元に突きつけられた気分に襲われる。
狙っているのか、何気なくなのか、全く読めない。

知り合いどころか、あの男の彼女だった事実は消えない。
ここで本当のことを話したら、井口を騙すことになる。

でも、それは過去の話。
深川幸穂が背負うこと。

今は藤下優月。


ワタシは女優。

薄っすらと笑みを浮かべて答える。
「いえ。藤下優月の知り合いにあのような男はおりません。」

「そう。」
井口の口元が綻んだ。そんな気がした。


二人を乗せた車は大通りを一気に加速し、ビルの隙間へと消えていった。

カイラク - 1


「動機?半径30cmの外で起こっている平和を壊したかったから。」


飛散するガラス。
落下する欠片。
悲鳴を上げる主婦。
泣き叫ぶ子供。

平日白昼、雑貨店のガラス食器売場を襲撃。

右手には現地調達の綿棒。
別の売場からせしめてきた。

陳列されたワイングラス。
胸元ほどの高さに、隙間なく並べられている。
店員の並々ならぬ努力の賜物か、奥から手にとって見定める客がいないだけか。
店の事情なんて、今はどうでもよい。

幸い、周囲に人はいない。

手前の通路をバッターボックスに見立てる。
両足を肩幅程に広げ、綿棒を両手できつく握り締める。
ゆっくりと深呼吸した後、大きく一振り。

棒先がグラスに触れる。
あるものは脚が折れ、隣のグラスを巻き添えにして倒れる。
芸術からずっとかけ離れたドミノ倒しが至る所で発生する。
また、あるものは、十分に凶器となり得る鋭利な角を現す。
仮にワインを注げたとしても、口を付けることはできない。

他にも、細かく砕かれた小さな欠片が扇状に軌跡を描く。
蛍光灯に反射して煌く様に、思わず見とれる。

同時に、幾重にも連なった不協和音が店中に響く。
周囲の客が異常に気づき、叫び声を混ぜる。

日常が壊れた。
平穏が失われた。

全て、自分の両腕が変えた。


思い描いていた通りの展開。
自然と口元が綻ぶ。


突然の出来事に慌てふためく客。
観察しているだけで快感すら覚える。


騒ぎを聞きつけた店員が、すぐさまこちらに走ってきた。


反射的に足が動く。
今でも認めたくないが、「悪いことをしている」という本能が働いたのだろう。


手にしていた綿棒を足元に投げ捨て、その場を走り去った。

カイラク - 2

計画を思いついたのは2週間前のこと。

何も起こらない日常。
進展のない生活。

平凡すぎる毎日に嫌気が差す。


そんなある日、突然閃いた。
日常を壊すストーリー。
主役はこの僕。

悪魔の囁きなんて安いものじゃない。
刺激が足りない中で生み出された名案。

それと同時に、プロットもすんなりと出来上がった。


標的にしたのは、2つ先の駅前にある、地元タウン誌で紹介される程度の雑貨店。
しかし、一度たりともこの店に入ったことがない。

そこはガラス張りのテナント。
外にいても、フロアの配置がよくわかる。
ゆったりと設けられた通路以外は、様々な種類の雑貨が整然と置かれている。
だからといって、お客に緊張感を与えているわけでもない。
空間利用術に長けた人間が設計したのだろう。

置かれているのは、明らかに女性が手にとって買って行きそうな商品ばかり。
お洒落と無縁な人間には、全く入る余地のない空気を匂わせている。

また、店員はバイトらしき若い女性が2人。

臆病者な僕が選んだのは、少しでも成功する見込みのある要素が詰まった場所。

別に店側に過失があるわけではないが、偶然にも望んでいた条件と一致していた。
それだけの理由で、この店を選んだ。


クローゼットの中で一年以上眠っていたダウンジャケット。
スキー用の帽子。グローブ。サングラス。
全て引っ張り出す。

当日の行動を思いつく限り脳内の原稿用紙に留めては、何度も推敲する。
都合の良い展開が仕上がる度に、含み笑いが漏れる。


このとき既に、「タメライ」の四文字は、脳内から抹消されていた。

カイラク - 3

駅までは一直線。
改札めがけて駆け抜ける。

イメージの中では俊足のつもりだった。
現実は、描いていたものとは似ても似つかない鈍足。
ダウンジャケットの裾が邪魔で、足を振り上げることができない。
それから、息切れから来る喉の痛み。
鉄の味さえしてくる。

やっとのことで駅構内に滑り込む。
しかし、息を整える暇はない。
予め購入していた帰り分の切符をポケットから取り出し、自動改札に突っ込もうとしたその時。

不意に、袖口を勢いよく引っ張られる。
切符を掴んだまま、後ろに倒れかける。

振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
口元に表情はなく、両目とも僕の瞳を追っている。

切符を持った右手の手首に熱を感じる。

急に全身が強張る。

彼女が僕の何を知っている?
今ならまだ間に合う。
そのためにはこの手を解かなくては。

何度も自分に言い聞かせる。
しかし、体が言うことを聞かない。
次第に焦りが生まれる。

その隙に、今度は黒い手帳をちらつかせた。
巡回中の私服警官。

シナリオには出てこなかった人物の乱入。
そんな展開、想定なんてしていない。
できるわけがない。

改札の向こうには、駅へと続く階段が見える。
あと数秒早く辿りつけていたら、今頃は悠々と電車のシートでくつろげたのに。

右腕を左右に揺らす。
血の通った枷がそれを邪魔する。
揺れを諌めるために、締め付けをきつくされる。

痛い。
跡ができていてもおかしくない。
明らかに自分よりも小柄なのに。力があるとは思えないのに。


遠くで発車を告げるベルが聞こえる。
時刻表通りなら、きっと、自分が乗る予定だったもの。

今の気分を例えると、一番乗りでゴールテープを切る直前で、監督に手をかけられたマラソン選手のよう。
大きく肩を落とし、項垂れ、その場に蹲る。

仮に、今、この女刑事の手を振りほどいて改札を抜けたとしても、狭い構内の中、追走をかわすのは至難の業。ここで終わりか。


後のことは覚えていない。
きっとあの女に引っ張られるようにして警察署に連れて行かれたのだろう。

カイラク - 4

拘留されていた間、何をしていたのか、殆ど記憶にない。
が、数日の間に、一般人へと戻っていた。

あの雑貨店はどうなっているだろうか。
興味本位から、近くまで行ってみることにした。


とはいえ、店内に堂々と入る勇気はない。
通りを挟んだ向こう側から、さり気なく様子を伺う。
フロア内の配置は少し変わっていたが、客の入りを考えると、それほど大きく影響はでていないようだ。


ふいに、取り調べを受けていたときのことを思い出す。

見当違いなことばかり吐く初老の刑事に、幾度となく動機を問われ、咄嗟に噛み付いた一言。

「動機?半径30cmの外で起こっている平和を壊したかったから。」

すぐさま、思い切り頬を叩かれた。

「君が壊したのはあのお店でも何でもない。君自身だ。」

一世代前の、熱血モノのドラマか。暑苦しくて苦手だ。
息巻く刑事を見るのも鬱陶しくなり、終いには反省しているふりを突き通していた。


無駄な時間だけを費やした取り調べの後、一緒にいた若い刑事に言われた言葉。
今も強烈に脳内を刺激する。

「君はさっき『平和を壊したかった』と言ってたけれど、そんな小さなことでは壊れたりしないよ。無意識に元に戻す力を持っているからね。また同じことをするのは勝手だけれど、君みたいな中途半端な論理じゃ、現行犯でなくてもすぐに捕まえるさ。」


それから押しの一言。

「次は容赦しない。」


若い刑事の言葉は十分に的を射ていた。
店の姿を目の当たりにして、やっと理解できた。

僕がしたことがあまりにも小さく、馬鹿げていたことを。


店員と目が合った。
そんな気がした。

途端に悪寒が全身を襲う。

そろそろ帰ろう。
爪先を駅へと向けたとき、背中を強風が後押しした。

Tumbling Tube - 1

雲ひとつない新月の夜。閑静な高級住宅街。
一角にある、一際目立つ新築の家。

その二階では、ベランダから侵入した若い男が粗探しをしていた。
クローゼット、鏡台、机。
棚や引き出しを開けては目当てのものだけを取り出し、手際よく袋に詰める。

その傍らでは、ベッドの中で20歳位の女が、寝息を立ててぐっすりと眠っている。
この家の一人娘。両親は旅行に出かけており、ここ数日は彼女が家を預かっていた。
にもかかわらず、今夜は酒を大量に飲んでおり、多少の物音では目が覚めない。

粗方引っくり返したところで、一杯になった袋を肩にかける。
そのまま逃亡するかと思いきや、部屋を出る寸前で体の向きを変え、ベッドに近づくと、未だ安心して眠りに着く女のおでこを小突いた。

「痛ぁ。」
甘ったるい声を出して、両目を擦る。
体内に酒が残っているのか、知人と思しき名前を挙げながら、眼前に作られた人の影に向かって語りかける。
だが、影の正体を捉えた瞬間、両目を見開き、息を飲み込んだ。
恐怖で全身が硬直している。抵抗することも、助けを呼ぶこともできない。


「7年ぶりだね。藤野絵美香さん。僕のことなんて覚えていないだろうけど。」

絵美香と呼ばれた女は首を左右にぎこちなく動かし、知らないと動作で訴えた。

「やっぱりね。加害者は被害者のことをすぐ忘れるって言うけど強ち嘘じゃないね。西島佑一って言えば通じる?」

彼女は尚も首を横に振り続ける。両目から大粒の涙をこぼす。

「中学に入学してすぐ、盗難騒ぎの犯罪者扱いしたこと。あの事件のせいで、僕は退学になった。せっかく入学した名門私立だったのにさ。それに、僕が辞めた後、冤罪だってわかったんだってね。」

彼女は首を振るのをやめ、目を背けようとした。
西島は上半身を傾けると、口元に右手を当てて捻り、顔を正面に向けた。

「でも、君を恨んでいるのは僕以外にもいた。今日は復讐の一部を手伝いにきた。」


肩にかけていた袋を彼女の視界に入る位置で持ち上げ、冷たく言い放つ。

「これ、君がいろんな人から取り上げたもの。君にとってはもう価値のないものかもしれないけれど、その人にとっては宝物ってものまである。元々はその人のものなんだから、返してもらうよ。」


西島はベッドから離れると、ベランダに向かって歩き出した。部屋を出る直前、先ほど詮索したばかりの机に目を落とす。

「これ・・・。」

足を止めたまま、筒を手に取る。
中には綺麗に色づけられたジェル。
筒の中央には、穴が3つ開いた仕切り。そこを、細くなったジェルの筋道が下の筒へと流れて溜まっていく。
再現性のない、何とも不思議な光景。ずっと見ていても飽きない。
しかしながら、肝心の名前がわからない。

引き出しに気を取られて、机上にあまり意識を向けていなかったのか。

「そ、それは盗らないで。」
掠れと震えが入り混じった声。愉快犯ならそれを快楽に感じるかもしれない。
しかし、職業柄、彼自身はそういった感覚を持ち合わせてはいなかった。

「これ、大切なんだ。じゃあ、もらっていこう。」
依頼を受けたものではないが、興味が沸いた。
一つはこの筒に。
もう一つは、彼女の今後の反応に。


ベッドの上で狼狽する彼女を尻目に、西島はそっと部屋を抜け出す。
軽い足取りでベランダに出ると、マジシャンが十八番の手品を見せるが如く、自らの姿を煙に巻いた。

Tumbling Tube - 2

茫然自失のまま、絵美香はベランダに出た。
周囲を見渡したところで泥棒の行方はわからない。
夜風が肌を刺激するおかげで、徐々に冷静さを取り戻す。同時に、事実を受け入れる余裕が生まれた。

諦めて部屋に戻り、もぬけの殻と化した部屋を一望する。

あの筒は、お土産として両親からもらったもの。
ただの置き物と見なされるわけにはいかない。


そういえば。
あの男が自ら名乗っていたことを思い出す。

ニシジマユウイチ。

一音一音声に出してみる。記憶の糸を手繰り寄せる。

中学入学当時。
わずか1ヶ月で退学した、右隣の席にいた男。
私の財布が消えた。
彼の机から見つかった。
結果、彼は学校を去ることとなった。

彼の退学が決まった後、同じクラスの別の男が、床に落ちていた財布を西島の机に突っ込んだことが発覚した。当時、騒ぎが大きくなりすぎて、なかなか言い出せなかったとのこと。その日の放課後、担任と一緒に謝罪をしに西島家を訪れたところ、門前払いを食らったと聞いた。
しかし、騒ぎを大きくした当の本人は、その間何もしていない。
私は悪くない。私は騒ぎに巻き込まれただけ。

終始被害者を貫いた。

それを今更、一体何のために目の前に現れたのか。
今わかっているのは泥棒の本名。それだけが唯一の希望。

絵美香はしばらく頭の中で様々な試行を繰り返した後、部屋に置かれている電話の子機に手を伸ばすと、「1」「1」「0」の順に、一つずつ確実にボタンを押した。

「もしもし、警察ですか?泥棒に入られました。」

Tumbling Tube - 3

深夜にもかかわらず、警察が押しかけてきた。
盗難が確認されたのは、絵美香の部屋だけらしい。
この日は簡単な現場検証だけで、聴取は翌日に繰り越された。

「だから、西島佑一って名乗ってたんです。ここに写ってる、この男。」
入学式の集合写真に爪を叩きつけるように、何度も指差す。
写真の隅に写る、野暮ったい顔をした、肉付きの良い少年。
昨晩現れたのは、体操の選手かダンサーを髣髴させる絞った肉体に、精悍な顔つき。
写真の彼がそのまま成長した姿とは到底思えない。

だが、西島と絵美香の接点はこの写真一枚のみ。彼女が持ち得る、唯一の資料。
にもかかわらず、刑事の発言は、彼女の期待を裏切るものだった。

「最近話題の泥棒ね。本名と写真の情報提供はありがたいけれど、あまり期待できないよ。本名なら他の被害者の前でも名乗っているけれど、なかなか捕まらない。何せ、自分の欲とは関係ないところで動いているからね。おまけに予告もないから、出現場所に当たりもつけられない。」

「とにかく私は盗まれたものを返してほしいの。御託を並べる暇があったら、探し出してちょうだい。」
間髪入れずに一回りは上と思われる刑事を怒鳴りつけると、そのまま警察署を後にした。


数日後、絵美香の携帯電話に吉報が飛び込んできた。
「重要参考人ですか?今から行きます。」


軽やかな足取り。
胸を躍らせる。

しかし、通されたのは、取調室の様子を一望できる通路。
聞けば、「本人かどうかを確認してください。」とのこと。

本人の襟首を掴む暇も与えられない悔しさを顔に出す。
口や態度で訴えれば、追い返される。もどかしさを胸中に押し隠し、参考人が現れるのを待った。

数分後、担当の刑事に連れられた男が取調室に入る。
最初は俯き加減だったが、絵美香の存在に気づき、わざと目を合わせてくる。

毒や覇気のない瞳。それ以外は昨日と同じ。以外とすんなり見つかったんだ。


部屋に集まった一同が着席し、いよいよ取調べが始まる。
絵美香も固唾を飲んで、行方を見守る。

「刑事さん、いつもご苦労様。」
開口一番、全く予想していなかった一言が飛び込んできた。

「悪いけど、僕は佑一じゃない。」

絵美香に衝撃が走る。
周囲の刑事は、顔色一つ変えることなく、自分の役割をこなしている。
同じことが何度も繰り返されているのか、顔からは諦めの色さえ伺わせる。

「僕は双子の弟。浩介。僕のこと、覚えてる?」
今度はこちらに向かって手を振ってきた。すぐに刑事に窘められる。

「中学、僕は違うクラスだったから、知らないかもしれないなぁ。二卵性だったし、兄貴はすぐ辞めちゃったし。」
ここで刑事の顔を一瞥し、咎める気がないことを確認すると、再び舌を滑らせる。

「そうそう、兄貴、僕の知らないところで整形したみたい。それも僕をベースにさ。体は成長と共に絞られたってことにしておこうかな。おかげで事件が起こる度に呼ばれる。ある意味、僕も被害者だ。」

同じ顔。同じ話し方。あのときの男と違うとわかっていても、いらいらする。
しかし、その怒りを誰にもぶつけられないまま、彼女は再び警察署を後にした。

Tumbling Tube - 4

「これですよね?」
最後の1人の元へ、取り返した品を渡す。

萎んだ布袋を抱えながら、人気のない住宅地を歩いていた。
しばらく足を進めていると、反対方向から、見覚えのある女がやって来た。

「あ。」

そういえば、ここはあの女の家の近く。
西島本人としては、一番会いたくない人間だった。
相手もこちらに気づき、大慌てで走り寄って来る。

「ちょっと、待ちなさい!この泥棒!」
金切り声が響く。泥棒であることに間違いはないが、ここで言われる筋合はない。
殺気立った顔で睨んでいる。こういうときこそ冷静に応対しなくては。

「泥棒だなんて人聞きが悪いなぁ。何か用?」
とぼけた振りをして、動揺を誘う。

「液体版砂時計みたいになってるあの筒。まだ持ってるのなら返して。」
至近距離で十分届くにもかかわらず、恨みの篭った声で叫ばれる。

「この筒の名前も知らない癖に。どうせ僕が手にするまで愛着すら持っていなかったんだろ?」

その発言に、彼女は何も言えずにひたすら西島を睨みつける。
目の前の相手を打ち負かす一言を模索しているようだ。

好機。すぐさま筒を袋からつかみ出すと、さらに畳み掛けた。
「これ、ウーズチューブって言うんだって。さっき、液体版砂時計って言ったけど、落下速度は温度に影響されるから、時計になんかつかえるわけない。鑑賞用。それでも大切かい?」

「大切よ。だって、両親からもらったものだもの。」
予想通りの答え。ひねりもなく、そして、つまらない。

「ここに君にとって大切だと言い張るものはある。だから僕は奪った。けれども君が僕から奪ったものはここにない。」
眉をひそめ、首を傾げる。あからさまな態度。答えを期待するのはやはり無謀だったか。

「中学生活?未来?」
「言うと思った。あの後に入った学校は居心地よかったから、何とも思ってない。」
小さく息を吐く。どこまで落胆させるのだろう。

「僕が君を許す権利。」

大きく息を吸い、気の高揚を抑える。

「一度目は事件が起こったとき。二度目は真相がわかったとき。三度目は僕が君の部屋に入ったとき。特に三度目なんて、僕が去ってからまずしたことは、警察への通報だ。自分も過去に人のものを盗った事実は棚に挙げてさ。それを見て確信したよ。君は自分しか見えていない。君に謝ってもらう気は失せた。」

沈黙。言い返せないでいるといった方が正しいか。
眉がつり上がっている。ここまで言えば、もう十分か。

「これ、もう用済みだから返すわ。」

手に持っていた筒を投げる。筒は大きな弧を描き、彼女の手の中に納まった。

「それじゃ、もう会うことはないと思うけど。」
目をあわすことなく、呆然と立ち尽くす彼女の横をすり抜ける。
そのまま曲がり角を折れ、彼女の視界から姿を消した。

Tumbling Tube - 5

「あれ?兄貴、来てたんだ。」
玄関から声が聞こえる。
迎えるのは、瓜二つの顔を生まれながらに持った弟。

「一仕事終えたからね。警察にはもう呼ばれた?」
「今日ね。それにしてもあの女、中学のときから変わってないね。」

ジャケットを脱ぐのを見計らって、わずかながら厚みのある封筒を差し出す。

「報酬。っていうか、情報料。人数が人数だから、意外と儲かったよ。それにしても、あの女、かなりの人間から物を取り上げてたんだな。おまけに罪悪感もなさそうだったし。」

浩介は封筒を受け取り、中身を確認すると、バッグの奥底に隠した。
それから、リビングの片隅を指差す。

「そうそう、ウーズチューブって言ったっけ?あれ、見つけたよ。売ってるところがなかなかなくて、苦労したけど。」

棚の上では、中身のジェルが筒の下側に落ちきったウーズチューブが置かれていた。
その姿は、まるで佑一に気づかれることをひっそりと待っているかのようだった。

「あ、さんきゅ。お前から名前聞いてすっきりしたのはいいんだけどさ、あれ見てると、自分の半生そっくりなんだよなぁ。」

「どの辺が?」
発言の真意を問いかけながら、徐に筒をひっくり返す。

「これって、あと数秒あれば中身が落ちるってところで、ついつい逆向きにしちゃうだろ。」
流れ落ちる液体に視線を注ぎながら、言葉を続ける。

「それが似てるんだ。おかげでいつも最高と最低のラインを経験することなく今に至ってる。」

「そんなことない。そんなことは・・・。」
言葉に詰まる。
それを隠すように筒に手を伸ばしたが、触れる直前で手を引っ込める。息を飲み込んだまま、音に乗せて吐き出す瞬間を伺っている。
弟の様子などお構いなしに、兄の話は尚も続く。

「中学も難関を突破したところで退学。でも、転校先では濡れ衣を着せられた可哀そうな男として受け入れてくれた。事件のせいで体重が激減したことが功を奏したようだ。それから、高校で始めた体操部では、大会で入賞できる力を付けた。なのに、3年の大会直前で怪我して離脱。一生ものの怪我じゃなかったけど、大学への推薦話は消えた。そして卒業後は表舞台から姿を消す。で、今は、弟の情報収集能力と、自分の身体能力を活かして泥棒家業。」

「盗んでいるんじゃない。僕らは依頼されたものを取り返しているんだ。」
捲くし立てる兄を制止するように、浩介は語調を強めて訂正する。

佑一はしばし考え事をした後、弟が考えもしなかったことを言い出した。
「それも、そろそろ潮時。復讐まがいも終わった。今まではうまく行ってたけど、嫌な予感がする。最悪、二人とも監獄行きだな。」

佑一は筒に手を差し出すと、まだ半分も落ちていない筒を即座に反転させた。
勢いをつけて、机に置く。プラスチックと木がぶつかり、硬く高い音が部屋中に響く。

「だから、近いうちに鞍替えする。何かは決めてないけど、自分で転がすタイミングを決めて、良い方に導く。」
もう一度筒を握り締め、手の上で転がした後、勢いよく打ち付ける。

筒の中身では、半分に割れた液体が奇妙な曲線を描き、下側の筒へと流れ落ちている。

有りの儘

「もし1回だけ時間を遡れるなら、生まれる前の日に戻りたい。」
いつしか彼女が言っていた。
そのときは冗談としか受け取っていなかった。

「どうして?そんなに昔に戻ってどうするのさ。」
「どうせなら最初からやり直したいじゃない?」

彼女はいつも中途半端になることを嫌がる。
これもその1つとばかり思っていた。


しばらくして、彼女にプロポーズした。
彼女はその場で泣いて喜んでくれた。


これを機に、二人で暮らし始めた。
僕の実家にも彼女を連れて行き、彼女も僕を実家に招待してくれた。

数日後の夜、彼女の母親から電話があり、驚くべき事実が伝えられた。
彼女が不登校になっていたこと。昔付き合っていた男に騙されて人間不信に陥っていたこと。仕事の失敗から鬱になっていたこと。

僕が始めて会ったときの彼女は、そんな経験をしていたことなど微塵も感じられなかった。
彼女が話さなかったのは無理もない。きっと、誰も彼女のことを知らない環境でやり直そうとしていたのだろう。

最後に電話口で、彼女を裏切らないでくれと懇願された。
僕は全てを受け止めた上で、一言だけ力強く返事をした。

「はい。」


電話を切った後、ようやく彼女が言っていたことが理解できた。同時に、軽く受け止めてしまったことを悔やんだ。
あの時、彼女は本気だったんだ。


思い返せば、彼女は全く自分の過去を話すことはなかった。
全てを話したら、三行半を叩きつけて逃げるとでも?もしそんな答えが返ってきたとしたら・・・。
彼女は僕をどの位信用しているのだろう。
考えれば考える程、やるせなくなる。


そこへ、彼女が仕事から帰ってきた。ここ最近、仕事が思うように進まず、残業続きだと言う。
夕飯の準備をしようとキッチンに向かう彼女。
いつも通りの光景なのに、途端に胸が苦しくなる。
気づくと、彼女を両腕で包んでいた。

「どうしたの?」
胸に顔を押し付けられたまま、彼女が尋ねる。

「気分。」
咄嗟に出てきた言葉でごまかす。
けれども、本当は僕なりの決意表明。
彼女を絶対に失望させない。

今日は朝から雪がちらつく。
「晴れてほしかったのに。」
窓の外を見た途端、ぼやく彼女。

二人で決めた小さなチャペル。
ここで、僕らは式を挙げる。
式場に向かう途中、区役所にも寄ってきた。
手続きが終わった頃、雪は止んでいた。


そして、もうすぐ純白の彼女を迎える。


これからは、今日があの一日になりますように。

浮クチカラ

潜れ。


本能の赴くまま。深く、深く。
左右の肺一杯に吸い込んだ息が続く限り。


目指す場所はただ一つ。
そこは何人も行き着いたことがない。
一度知ってしまったら、また訪れずにはいられない。
危険は百も承知。
害はない。しかし、依存性は高い。

底に辿り着く。
一点の曇りもない無機質なところ。
聖域という言葉がふさわしい。
指先で軽く撫ぜ、そっと唇を近づける。

これでここに自分が存在した証拠を体に刻めた。

全身から力を抜く。
足元から膨れ上がる斥力に身を委ねる。
無重力に似た感覚。
もし人間に浮遊力が備わっていたとしたら、それに近い経験ができたかもしれない。


水面が近づく。
淡い光を反射しているのが、裏側からでもよくわかる。
腕を目一杯に伸ばす。
もう少し。あと少し。

指先が水面を付き抜け、穏やかな波を乱す。
続けて顔を突き出し、腹の底から酸素を取り込む。


仰向けになり、胸を空気に晒す。
小波に背中を沿わせる。
心地よい揺れに任せて漂う。

昨日の不満や明日の心配で侵食された脳を空にする。
悩むことを止めて、ゆったりとした時の流れを体感する。


もうすぐ空が橙に染まる。
その前に、もう一度沈みにいこう。

R / I / N  - 1

「どうして泣いてるの?こんなにいい天気なのにさ。」
突然声をかけられ、涙を拭うことも忘れて反射的に顔を上げる。
自然と目が合う。ベンチに座っている私に対し、しゃがみ込んだ姿勢から上目遣いにこちらを見ている。
童顔の、今時な姿の青年。
けれども、革製の首輪をしているのがとても気になる。おしゃれのつもりなのだろうか。

「あ、もしかしてふられた?」
図星。今さっき、別れを告げられたばかり。

「浮気が本気になったから別れてくれ」
だって。
そんなの、あっさり承諾できるわけがない。
久しぶりに雲ひとつない秋空が広がった休日。朝からメールで呼び出されて、1ヶ月ぶりに逢えるのが嬉しくて、買ったばかりのワンピースを着ていったのに。一言も返せないうちに、彼は私の前を去っていってしまった。
そのまま背後にあったベンチに座り込み、泣き崩れたまま今に至る。

せっかく記憶の底に埋めて栓をしていたのに、彼の一言で全てが飛び出す。
頭の中で先ほどの出来事が完全再現される。
目頭に涙が溜まる。次々と噴き出すそれを制御することなんて、とてもできない。

「泣き顔もかわいい。」
堰を切って流れる涙。化粧が崩れ、あられもない顔を曝け出す私。
それを見て、彼は無邪気な笑顔で応える。

「ねぇ、こんなところで泣いてるってことは、この後何もないんでしょ?それなら俺と遊んでよ。」
手首をつかまれる。強い力。手を引き戻すこともできないまま、腰が浮く。
もつれる足をかまうことなく、彼は堂々と歩道の真ん中を歩き出した。

「ね、ねぇ。」
「俺のこと、リンって呼んで。君は?」
「私は・・・、ケイ。」
完全に彼のペース。相変わらず力を緩めようとしない。
目に映る景色と記憶が結びつかない。
どこに連れて行かれるのだろう。何が起こるのだろう。
怖い。早く解放されたい。
不安で胸が一杯になる。

「逃げないから、いい加減に手、離して。痛いんだけど。」
「もうちょっと、我慢してくれる。」

無言で歩き続けたまま、大通りを縦断する。一駅分は進んだだろうか。
彼の歩調にあわせるのが辛い。足枷を填められたよう。まだ着かないのだろうか。
一体どこに向かっているのか。何かされるのではないか。

繋いだままの手を、早く振りほどきたくて仕方がなかった。

R / I / N  - 2

「到着ー。」
そこは大きなゲームセンター。壁やマシンの塗装が剥げていない。できたばかりなのだろうか。

「ほら、こういうときってスッキリしたいじゃん。」
手を引っ張る。込み合う店内の中を、人ごみを押しのけて進んでいく。
人にぶつからないように気をつけてはいるが、たまに肩が触れる。私だけの責任じゃないのに、ひたすら謝る。
どこまで奥に進むのだろう。

「この辺に置いてあるの、この店しかなくてさ。」
目の前で見せられたのは、一台のパンチングマシン。
呆然と立ち尽くす私の右手にグローブが装着される。

「何も考えずに打ってみて。」
そっと耳打ちし、100円玉を入れる。

躊躇い、わずかに後ずさる。
絶対に敵わない相手を前に絶望して、立ち尽くすことしかできないボクサーになった気分。畏怖とは違う何かが、体を動かすことを拒む。

「ほら、構えて。それから、真っ直ぐに腕を伸ばすだけでいいから。」
その声につられて、テレビで見たボクシングのスタイルを真似る。
頭から全てを消し去り、右手に勢いをつけて真っ直ぐに振る。
しかし、ウレタンの中心をはずれ、思うように記録は伸びずに終わった。

「あぁ、残念。」
淡々とした動作で100円玉を追加する。

「それじゃ、もう1回。」
耳元で声が聞こえる。それにあわせて、腕を振る。スコアが少し上がる。

「やった。」
思わず声が漏れる。

「おめでとう。記念にもう1回。」
100円玉の落下音が引き金となって、拳を突き出していた。
彼の手元から小銭がなくなるまで、何度も、何度も。

ようやく彼の手から100円玉が尽きたとき、私の右手は思い通りに動かなくなっていた。

「それじゃ、次。」
店を出て、次は駅前に連れて行かれる。そこではショッピング。話題の映画を鑑賞。そして、ディナー。


「じゃ、帰ろうか。」
その言葉が出たのは、日付が変わるまで後2時間を切った時だった。

「家まで送っていくよ。」
いつもなら断る算段なのに、このときも彼に強く腕を握られていた。
断ることもできず、結局家の前まで来てしまった。

アパートの、私の家の前。

「私の家、ここだから。」
「あ、そう。」
パッと手を離す。潔い所作が怖い。

すると、
「俺、帰るから。待っていてくれる女もいるし。」
首輪を指差し、無邪気に笑う。

「それじゃあね。」
ヒラヒラと指を動かす素振りを見せると、名残惜しむ素振りをすることもなく去っていってしまった。
彼の姿が見えなくなったのを確認し、家の中に入る。

一体、彼は何者だったのだろう。
酷く落ち込む出来事があったはずなのに、その夜は1つの大きな疑問が頭の中を駆け巡った。

R / I / N  - 3

あの日から数週間。
リンことを考える暇もなくなっていた。


夜9時。テレビに電源を入れる。毎週、惰性で見ているドラマ。
ありがちな展開の恋愛ドラマ。けれども、不思議と欠かさずチャンネルを合わせている。


開始早々、玄関のチャイムを連続で鳴らす音が聞こえてきた。
それから、ドアを何度も叩く音。
酔っ払いが隣の家と間違えているのだろうか。

1分、2分。音が止む気配がない。
テレビの音量を落とし、身を潜める。

突然、音が止んだ。
やっと間違いに気づいたのか。体内に溜まった息を、一気に吐き出す。
少しずつ、テレビの音を復活させ、部屋の中に日常を取り戻す。


画面がCMに切り替わり、恐る恐る、玄関に近づく。
忍び足で、音を立てずにゆっくりと。

扉に手を当て、左目を瞑り、覗き穴に右目を寄せる。
左から右へと、目を動かす。
何も映らない。
よかった。
安心できたところで、踵を返す。

その瞬間、床が軋んだ。

「やっぱりいるんだろ?」
聞き覚えのある声。
疑いの眼で、もう一度覗き穴から外の様子を探る。
やはり誰もいない。

ドアノブのつまみを直角に傾ける。
チェーンがかかっているから、きっと、大丈夫。

ドアノブに手を掛けた瞬間、ひとりでにドアが開いた。

思わず息を呑む。

「ほら、いた。」

10cm程度の隙間から顔を覗かせたのは、リンだった。
シャツや手、顔に赤黒い染みを滲ませ、微笑んでいる。
瞬時に目を瞑り、首を傾ける。声にならない小さな叫びが、喉を通過する。
左足が一歩だけ下がる。右足は硬直して動かない。

「ねぇ、ここに入れて。」
隙間に腕を通し、左手に持っていたものを広げる。
身に着けていたはずの首輪。金具の部分がつながったまま、別の箇所で途切れている。
徐に、そして片方ずつ目を開き、リンの首に視線を合わせる。
薄暗い電灯に照らされた、白く、痣の残る首に絶句する。

「逃げてきたんだ。彼女と喧嘩しちゃってさ。」
恐怖で足が竦む。ドアを閉めたいのに、手に力が入らない。

「首輪外すときにてこずっちゃってさ。自分で留めた癖に、外すときはナイフ使うなんて思ってもみなかったよ。」
手先には痛々しい傷跡。それを隠すことなく、口元を綻ばせたまま、こちらを見つめている。
ここで彼を通したら、間違いなく自分の身が危ない。
鍵なんて、開けなければよかった。
恐怖と後悔で頭が錯乱する。

「チェーン、外してよ。傷の手当だけでもさせて。」
甘ったるい声で囁く。内に秘めた狂気を隠して、弱い自分を演じているかのよう。
化けの皮が剥がれるのを、押さえているようにも見える。
この前は彼の言うがままになっていたが、今は違う。
ここは自分の家。何としてでもリンに飲まれてはだめだ。

「ダメ。前みたいに帰って。」
「無理だよ。俺、今ノラだし。」

膠着状態。強引にドアを閉めようとしたところで、彼には適わない。
もしそれができるのなら、あの時手を振り払って逃げていた。
力で適わないなら。

「・・・警察呼ぶから。」
声を振り絞る。あまり大事にはしたくないが、いざとなったら助けを求めるしかない。

「呼べば。どうせ、男女の縺れとして相手にされないからさ。」
いつの間にか、隙間に足を踏み入れている。これではドアを閉めることができない。
それにしても、一向に動じる気配がない。もしかしたら、過去に同じことをしているのかもしれない。

尚更、彼に負けるわけにはいかない。

「名前以外何も知らない相手でも?」
感情に任せて吐き出す。

「でも、僕はキミの家を知ってる。」
「私は"リン"という名前以外何も知らない。」
頭で考えるよりも早く、息に乗せてぶつける。少しでも止まったら、彼の思惑に乗せられる。そうなることが怖い。

「通してくれたら何もかもを教えてあげるよ。」
この状況を楽しんでいる。少なくとも、余裕と自信に満ちている。


この局面を打破するための、最後の手段。一瞬だけ、頭の中を空にする。
しっかりと彼の両眼を見やる。

「私の名前を知らなくても、同じことができる?」
「え?」
彼の言葉が詰まる。好機。一気に畳み掛ける。

「ケイはあの日別れた男の名前。何も知らない男に本名教える程、私も馬鹿じゃない。」
「あの時、キミは楽しんでいたじゃないか。」
「それは思い込みでしょ?あの日、強引に連れ回されて、ちょっとでもつまらない素振りをしたら何が起こるかわからないから、作り笑いしてあげただけ。本当は嫌で仕方なかったんだから。」
自分でも嘘とも本当とも区別が付かない。隣人に聞こえてもかまわない。ただ、彼を消し去りたかった。

「・・・そう。」

力を失った彼の手足は、ドアの隙間をするりと抜けていった。
瞬時にドアを閉じ、鍵を閉め、奥の部屋へと走った。

部屋に戻ると、付けっ放しにしていたテレビが、真っ先に視界に飛び込んできた。ドラマは終盤に差し掛かっている。画面の中の温かな展開に嫌気が差し、スイッチを切ると、ベッドの中に潜り込んだ。
今度は音がしても、絶対に出ない。だから、もう来ないで。

時折外から響く小さな音に怯えながら、眠れない夜を過ごした。
 
 
 
それから1ヶ月後、私は別のアパートに引っ越した。

R / I / N  - 4

季節は巡り、再び訪れた乾いた空気と爽やかな青空の下で、私はベンチに腰掛けていた。

「また、ふられた?」
聞き覚えのある声に、顔をあげる。

「リン。」
忘れていたはずの情景が頭の中を駆け巡り、顔が強張る。

「安心して。強引なことはしないから。」
そっと語りかける。あのときのような邪気がないのはわかっているけれど、体、特に両腕は拒否反応を示す。
両手首を堅く体に引き寄せた。

「今は誰にも繋がれてない。」
首輪がはずれ、露になった白い首をここぞとばかりに見せ付ける。

「で、今さっき偶然に君を見つけたと思ったんだけれど。」
視線を少し落とす。その先に何が映っているのか、すぐにわかった。

「今度は君が誰かと繋がっているんだね。」
右手の薬指。
私は赤く染まった頬を髪で隠すように、小さく頷いた。


「ごめん、待たせた。」
遠くから耳に馴染んだ男の声が聞こえる。彼だ。脇目も振らず、彼に飛び込む。


「今、誰かと喋っていたみたいだけれど、誰?」
「人違い。」
「そう。」

振り向くと、リンの姿はなくなっていた。
脳裏に、彼の首輪がブツリと千切れる光景が浮かぶ。
実際にその瞬間を見たわけではないのに。

同時に、リンはもう私に逢いに来ない。根拠のない予感が体内を渦巻く。
わずかながら増殖する複雑な想いを押し隠し、肩を寄せ合う彼に、歩幅を合わせた。

水底の雫


アレがほしい。
コレもほしい。

1つ1つが手に入るたび、内面の水槽には水が溜まっていく。
望みが大きければ大きいほど、注がれる量も比例して多くなる。

『我慢』なんて、私にとっては辞書に埋もれた言葉。
ちょっと口に出すだけで、誰かが見つけてきてくれる。
皆私の言いなり。
届かないものなんてない。

水嵩が9分目を超えたら、一回り大きな水槽へと入れ替える。
全部捨てて、同じ水槽にまた溜めるなんて馬鹿げている。
どうせなら、もっと大きな水槽を一杯にしたい。


誰でもいい。私を満たして。
溺れる位。息ができない位。水槽から水が溢れる位。
もっと、もっと。


でも、いつも何かが足りない。
水槽の水は増え続けているというのに。

そんなときに囁かれたあの一言。

「君にはもう飽きた。」

未だに耳元に残っているあの声。
悦に入っていた私の気分を一気に粉砕してくれた。
他にもいろいろ言われたが、怒りと悔しさで全く覚えていない。

誰かに縋ることのどこが悪い。
私を満たせない男と縁を切ることのどこがいけない。
自力じゃなくても、最終的に私の手に収まることのどこが問題?


その時、温かな雫が頬を伝った。
その後も目頭から同じ経路を通って、次々と零れ落ちる。


この水源はあの水槽?
とうとう決壊したんだね。
これ以上溜めても溢れさせることも満たすこともできないのなら、全て流してしまおう。

人目を気にすることなく、精も根も尽きるまで泣きじゃくった。
声が枯れた後も喚き続けた。


最後の一滴が地面に落ちたとき、体は今にも宙に浮きそうな位、軽くなっていた。


あの日から、水槽は乾ききったまま、底が割れたままになっている。


何もすることがないときは、部屋の隅で蹲ったまま、何も考えずに過ごす。
あの瞬間から、あらゆるものを渇望する気力が生まれなくなった。


あれから、数ヶ月。
色々とわかったことがある。
眼に映るどんなものが手に入っても、一時の満足で終わっていたのは、一度たりとも自分一人の力で得ようとしなかったから。
もっと大きな水槽に移し替えたくなったのは、簡単に水を溜められる術を知ったから。
そして何よりも、私が誰かを満たせないのと同じように、私が溺れるまで完璧に満たしてくれる人なんて、この世の中にいるわけがないのだ。


水槽を取り替えた。
最初に意識したときよりもずっと小さな、金魚が数匹泳げる程度の大きさ。

水が入らなくても、水がなくなってしまってもいい。
今度は自分の力で溜めていく。

strange class

あれは、秋晴れの爽やかな午後のことだった。

昼休み終了5分前を告げるチャイムが鳴り響く。
大急ぎで階段を駆け上る男子生徒が1人。
彼の名前は北見。この高校の3年生。
教室は校舎の最上階。次のチャイムまでに駆け込まないければ、遅刻扱いにされてしまう。
この時期は些細な行動が進学に影響する。教師は目を光らせ、生徒は神経を尖らせる。

最後の一段に到達し、そのままの勢いを保ったまま、廊下を駆け抜ける。
廊下にはわずかながら人の往来はあるが、見たところ教師はいない。
全ての扉が閉じられ、教室の中を窺い知ることはできないが、騒ぎ声が聞こえる。おそらく先生は来ていない。
まだ間に合う。

彼の席は一番前の真ん中。
教室の前扉を勢いよく開け、両足を板張りの床へと踏み出した。
しかし、2歩進んだところで動きを止める。
扉の先は信じがたい光景が広がっていた。

教室の窓際に逃げまとい、怯える女生徒と、それを追い詰める二人の男。
白目を剥き、蒼白した顔をしているが、同じクラスの山川と藤田だ。
男は手当たり次第に物を投げている。
あまりの非日常的な展開に、北見は扉口で突っ立ったまま、事の成り行きを見ていた。
襲うには敵の数が多すぎると悟ったのか、しばらくすると、彼らは諦めて教室の後ろ扉から出て行った。

すかさず、後ろ扉付近にいた数人が扉をピシャリと閉める。
その音を聞いて北見は我に返り、思わず背中にある扉を閉める。

簡易的な閉所空間になったことで、中にいた者が落ち着きを取り戻す。
興奮が収まったところで、北見が口を開く。
「一体、何があった?」

全員が彼を味方と悟ったところで、銘々が事の顛末を口にし始めた。
話をまとめると、原因はわからないが、昼休みに教室にいなかった数人が教室に帰ってくるなり、おかしくなりだしたらしい。
その後、すぐさま廊下の徘徊を始めた者もいれば、先ほどの彼らみたいに襲ってきた者もいる。
壁伝いに聞こえてくる悲鳴から、どうやら、他のクラスでも同じことが起こっているようだ。
北見が教室に入る前、廊下に不審な人影はなかった。今は他の階や校舎に行っているということか。


すると、青ざめた顔をした代田がなだれ込むようにして帰ってきた。
「ソンビウィルスに感染した。」
「ゾンビ?」
「あぁ、1年の女共がそう騒いでんだよ。ゾンビみたいな形相だからって。」
震える体を押さえ込むようにして、自分の席に座る。
感染した代田を目の前にして、女子生徒を中心に教室は再びパニックになった。

「打開策はないのかよ。」
後ろから誰かが叫ぶ。

「そういえば、どこかのクラス通りがかったとき、お茶かけたら正気を取り戻したって言ってた。」
弱弱しくなった声を振り絞り、代田が叫ぶ。
「それだ!」
教室中の声が揃う。

誰彼構わず荷物を開けると、飲みかけたペットボトル入りのお茶が出てきた。
中には進んで提供する者もいた。

片っ端から蓋をあけ、頭から浴びせる。代田の体はいろいろな種類のお茶にまみれた。
そして念のため、北見は最後の1つを代田に飲ませようと手渡す。
その時、代田と手が重なった。

「今、思ったんだけどさ、おまえどうして感染したってわかった?」
「奴らと手がぶつかったんだ。その時は何ともなかったけれど、2~3分位で気持ち悪くなってきて。そしたら、体の中に凶暴な人格が入ってきた感覚に襲われて・・・。」
「皮膚感染。」
傍にいた中嶋が口を挟む。

「畜生!」
慌てて、教室の向かいにある廊下の手洗い場へと駆け出す。お茶はすべて使い果たしてしまった。お茶をかけたときに手が濡れていたとはいえ、同じ症状が現れるのは時間の問題だろう。
幸い、廊下には誰もいない。
周囲に注意しながら、ハンドソープに手を伸ばす。
すると、遠くに徘徊を続けていた感染者が見えた。
襲われたときのことをシュミレーションする。皮膚感染とわかった以上、素手での攻撃は危険だ。何かあったときは蹴りで応戦か。教室に篭城するか。
迷っている間にも、北見と感染者の距離が近くなる。

だが、彼らは何かを呟いているようだった。
反対側に気を配りつつ、耳を済ませる。

「ラベンダーの匂い・・・。近づけない・・・。」

思わずハンドソープを見る。ラベンダーの文字。
急いで泡を落とし、両手を鼻に寄せて匂いが染み付いたことを確認すると、ハンドソープを片手に教室へと戻った。

「おい、コイツを手にかけろ。奴ら、ラベンダーが弱点だ。」

クラスの一人に投げる。
すると、ほぼ同じタイミングでゾンビウィルスに感染した、知らない顔の男子生徒が北見と逆側の扉から2人も入ってきた。
廊下で出くわしたのとは違う。おそらく別ルートからやってきたのだろう。

弱点がわかったこともあり、北見は率先して両手を前に突き出し向かっていく。
感染者達は顔を歪ませて後ずさり。
ハンドソープのコーティングを終えた同級生も、その効果を見て少しずつ加わってきた。
しかし、感染者達も助太刀要員として、次々と逆の扉から入ってくる。
万事休すか。


突然、北見の脳裏に昔流行ったノリの良い曲が頭を流れる。
反射的にそのまま口にする。
カラオケ好きな程度で、正直、熱唱する以外大してうまくはない。
中には突然気が狂ったのかと唖然とした視線を送る者もいた。しかし、一人、二人と同調してくれ、遂には大合唱となった。
次第に笑みがこぼれる。

全員にハンドソープが行き渡り、本格的に交戦が始まった。
物を投げる者もいれば、机の上から蹴りを食らわせる者もいる。
北見も例に漏れることなく、必死で応戦した。
この間、眼に映る光景がすべてスローモーション。脳内に流れるバックミュージックはさっきまで歌っていた曲。嘗てCDで聴いていたときと同じ音源が駆け巡る。


もう少しで追い払えると思ったその瞬間、窓から強烈な閃光が走った。


まぶしい!!


北見が眼を覚ますと、全員が床の上に倒れていた。
今まで気を失っていたようだ。

半身だけ起こし、しばらく様子を見ていると、周囲も序々に起き上がってきた。
遅れて、感染者達も目を覚ます。
身構えていると、どうやら正気を取り戻したらしく、
「ここは?」
「一体何が?」
と、口にし始めた。どうやらさっきまでの状態を全く覚えていないらしい。

その後、午後の授業はすべて休止となり、そのまま集団検診となった。
しかし、どの生徒にも乱闘で軽症を負った以外は異常は見つからず、そのまま大事を取って1週間休校となった。
最初に感染したといわれる生徒も、体育館で遊んでいたときに突然おかしくなったらしく、直接的な原因が見つかることはなかった。
休校になっている間、当局やマスコミがごった返していたようだが、何一つ掴めないまま、事件は闇に葬られた。
これは後日談となるが、お茶がワクチン代わりになったのは、別のクラスでは偶然にもラベンダー入りのお茶を持っている生徒がいたためらしい。代田自身はというと、ラベンダー成分の入ったお茶を飲んでもかけてもいない。強いて言うなら、正気を保っている間に塗りつけた両手のハンドソープだろう。後は、彼の精神力の強さと言ったところか。


あれから数ヶ月。
誰も、あの日のことを話題にしなくなった。
何時しか平穏な学校生活に戻っていた。
変わったことといえば、北見が愛用するポータブルプレイヤーに、あの時歌った曲が加わったこと位か。

今日もあと数分で昼休み終了5分前のチャイムが鳴る。
北見はあの曲を繰り返し口ずさみながら、階段を上っていた。

プラットホーム - 1

失敗した。
知人との、ちょっとした食事のつもりだったのに。時間を忘れて閉店まで飲んでしまった。
終電、間に合うかなぁ。

改札を抜け、ホームに続く階段を走り抜ける。
その間、男は電車が待っていてくれることを祈った。
最後の踊り場を回ったところで、発車のベルが聞こえる。つられて、足の動きが早くなる。
「あ、ちょ、ちょっと待っ・・。」

ホームに片足が着くのと同時に、一斉に扉が閉まる。
今、一番望んでいない光景。無情なことに、電車は次の駅へと走り出した。

いくら待ってもこの後の電車はない。それなら最後に改札を通った人まで待っていてくれてもいいのに。
特にここは地下鉄。ホームに着くまでにかなりの距離があるのだから、それ位の配慮を考えてほしいものだ。

遠くに消え行く電車を見送る。
同じホームを共有する反対側の路線は、既に今日のお勤めを終えている。
乗り遅れた不幸な人間は、きっと自分だけだろう。

完全に電車が見えなくなったところで、ホームを見渡す。
視界に飛び込んできたのは、ベンチの上で蹲る少年の姿。
見た目から判断して、15歳位か。帽子を深々とかぶり、黒いコートで全身を覆っている。
帽子とコートの間から覗く目は、逸れることなく反対側のホームを向いていた。

ちょうど背向かいにあたるベンチに腰を下ろす。
その間、少年は一瞥もくれることはなかった。


いつも以上に飲んだ酒のせいか、彼への興味が喉を突いて出てきそうになる。
ついに、背中越しに声をかけた。

「君、名前は?」
「・・・」

聞こえていなかったのか。
それとも、問いかけている相手が自分だと思っていないのか。

別の質問を投げる。

「誰を待っているんだい?」
「朝。」

まだ幼さの残る声。
答えに違和感はあるが、きっと自分と同じ境遇なのだろう。

この駅から家までは1時間以上かかる。駅を出たところで、他に帰る術も、どこかに泊まれるだけの金もない。
幸い、明日は特にこれといった予定もない。

いっそのこと、ホームで夜を明かすか。

プラットホーム - 2

硬く居心地の悪いベンチに座ったまま、時が過ぎるのを待つ。
いろいろ見渡しても、代わり映えすることのない景色。様々な角度から新たな発見をしようと試みたが、5分と持たず飽きてしまった。

立ち上がり、ホームの中間に立ち並ぶ看板を見て歩く。
大半は駅のお知らせやポスターばかり。しかし、イラストや写真が目立って、文字がほとんどない。これでは暇つぶしになんてならない。
自分が待っているホーム側の看板だけ見終わったところで、元のところまで戻ることにした。

少し離れただけなのにすっかり冷め切ってしまったベンチに座る。
すると、わずかながら、カタカタと震える音が聞こえてきた。
気配を悟られないように背後を見ると、体が小刻みに震えていた。
それもそうだ。
人の気配がなくなり、空気が冷える。厚着をしているつもりでも、少し肌寒い。
きっと、コートの下は軽装なのだろう。

目に付いたのは、時間に関係なく煌々と存在を示す自販機。その3段目には温かい飲み物が並ぶ。
財布に残ったなけなしの身銭で、それに等しいだけの温もりを買う。
それを2つ。

「寒いだろ?これしかないけれど、暖を取れよ。」
目の前に立ち、買ったばかりのコーヒーを手渡す。
少しだけ顔を上げたようだが、帽子のつばに遮られ、顔を確認することはできなかった。
2つ目を買ったとき、拒まれることも考えた。
その時は自分で飲んでしまえばいい。好かれようなんて心もなかったから、気楽に構えていた。

予想に反して、すっと袖口から指先だけを突き出す。
それから掠れた声で、
「ありがとう。」

意外と素直。
でも、コーヒーを受け取った爪が汚れていたのが気になる。実は何かに怯えていたのかもしれない。
とはいえ、理由を聞いたところで、自分には何もできないだろう。そこまで干渉する義理もない。
本当に聞いてほしいなら、いずれ彼から口を開くだろうし。

その後、何の対話もなく、それぞれがコーヒーの熱を取り込む音だけが響く。
最後の一滴が喉を通りかけたとき、ベンチが浮いた。
初めて彼が動いた。缶を捨てに行ったようだ。後姿に目を向ける。座っているときは気づかなかったが、コートの身丈が彼の体に全くあっていない。裾を引きずるように歩いていく姿が、彼が背負っている事情を代弁しているようだった。
ゴミ箱に缶が落ちたのと同時に、視線を線路に向ける。目が合うことに恐怖を覚えたからだ。

彼が再び腰をかけたのを見計らって、こちらも缶を捨てに行く。
ゴミ箱に缶をそっと落とし、足元に視線を落としながら、ベンチの指定席に戻る。

再び、長く退屈な時間。ホームをもう半周する気はない。かといって、荷物の中に気を紛らわすものなんて一つもない。
そうこうしているうちに、眠気が襲ってきた。
今、取られて困る程、財布に中身はない。他にも、売ったところで大金になるものなど持ってはいない。
そのまま、本能に体を任せた。

プラットホーム - 3

目が覚めた瞬間、時計に目をやる。
電車が来るまでもう少し。日の当たらない場所なだけに、体に朝が来たという感覚がない。
寝ぼけ眼のままふいに首を回すと、相変わらず彼は同じ体勢を保っていた。


程なくして、反対側のホームにこの日一番早い電車がやってきた。

「じゃあ、行くね。」

かすかに響く声。
振り向くと、停止線の前に立ち、目の前に扉がやってくるのを待つ姿が見えた。
扉が開く。彼は俯き加減に電車に乗り込むと、一番近くの席に座った。
ここでも背中越し。
結局、彼の顔はおろか、名前すら知ることはなかった。

発車のベルがなり、ゆっくりと電車が走り出す。
この先はたしか、何もない田舎町。
彼は一体どこに向かうのだろう。


男は少年を呼び止めることもせず、無言で別れを告げた。

Unlucky night

ただいま逃走中。
理由はよくわからない。

とにかく俺は走ってる。
それだけは確か。

中学、高校とバスケをやっていたから、走ることにはそれなりに自信がある。
大学入学と同時にやめてしまったけれど、まだブランクにはなってない(と思う)。


「待てぇーーーー!!」
一体何の恨みがあって、追いかけてくるんだ?
だいたい、今さっきあったばかりの奴にこんな目にあわされるなんて。

交差点に差し掛かり、迷うことなく左に曲がる。
そこは細い路地へとつながる十字路が連なる道だった。
あいつに見られる前にと、2つ目の道を左に曲がった。
その後、もう一度曲がったところで、息を殺して様子見。


何も知らない男は俺が路地に入ったことなど疑いもせず、まっすぐに突き進んで行った。
とりあえずは撒けた。


大きく深呼吸をして、ついさっきのことを思い出す。
本当なら今頃はサークルの飲み会のはずだった。

開始時間に少し遅れた俺。
主賓でもない俺のために取っておいてくれた席に座り、一杯目のビールを注文しかけたとき、
「おい、謝れよ。」

そう、あの男が言いがかりをつけてきた。
これが初対面。多分。いや、絶対。

既に酒を飲んでいるらしく、顔も赤ければ息にも独特の臭いがついている。

俺を含め、周りは瞬時に何かヤバイ展開になることを悟った。
その目は明らかに俺の顔を見てる。

「おい、今日の金はいいからとにかく逃げろ。」
その声で、両足が自分でも信じられない位のスタートダッシュを始めた。
その様子を見て、名前も知らない男まで追ってきた。
ぱっと見、20代後半から30代前半。俺なんかより体つきもしっかりしている。しかし、サラリーマンには見えない。どことなく動きやすそうな格好。
予想はしていた。けれども、後ろを振り返るのは怖い。

席を立とうとした何も関係のない客は、突然の展開に呆気にとられている。
他の客でにぎわう席と席の間をすり抜け、大急ぎで外へ。
たまにぶつかり、
「すみません。急いでいるもので。」
と、その人に届くように大声だけを残す。

ぶつかった人も最初は不快感をあらわにするが、すぐに事情を悟り、ときには
「兄ちゃん、頑張れよ。」
とまで言われる始末。

これが映画なら、その辺の椅子をなぎ倒して追っ手を阻むのだろう。
そんな都合のいい展開、そう簡単にその辺に転がっているわけがない。
きっと、『自力で逃げ切れ』との思し召しなのだろう。

唯一予想外だったのが、ドタドタとした足取りの割りに速いこと。
俊足とまではいかないが、油断はできない。

店を出た直後からギアをトップに持っていく。
幸い、昔ながらのガラス戸だったため、店内からの勢いを殺すことなく加速できた。

これは仕方ないのだが、扉は開けたまま、店の前の歩道を駆け抜けた。
あの男のことだ。ピシャリと閉めたところに突っ込んででも追いかけてくるだろう。
今の現状はもちろんのこと、ホラー映画のような展開なんて、もっと求めていない。

背中で感じ取れる気配や、歩行者の様子を見る限り、スポーツ経験者の俺とほぼ同じ速さのようだ。
本当に酒が入っているのかと疑いたくなる。
相変わらず、
「待てーーーー!!」
「そいつを捕まえろ!」
と、夜にもかかわらず周囲に喚き散らす辺り、素面でないことは確かだ。
声が上がる度に、俺に視線が集まる。バスケでいいプレイをしたときは最高の気分になれるのに、今は注がれる幾つもの目が気持ち悪くて仕方がない。

しかし、すれ違う人々も、この追いかけっこにかかわりたくないのか、一様にシカトを決め込んでいる。
俺だって、理由も知らないただの通行人に邪魔されたくもない。まして、助けを求める気なんてさらさらない。
はっきり言って、恥ずかしい。人気のないところに雲隠れしたい。


そして、今。
喉からは鉄の味、額から汗が流れ落ちる。
飲まず食わずで準備運動もなく久しぶりに動いたせいか、早くもスタミナ切れ。

こういうのを、『悪い奴に追われてる』というのだろうか。
悪い奴・・・?追われている理由もわかっていないのに?
あんな礼儀知らずな男の存在、記憶の片隅にも残っていないが、いやな思いはした人間よりされた人間の心に深く残るという。

もしその通りだとしたら、あの男に謝らなければならない。
しかし、一方的に謝るのは嫌だし、それ以前にあの男の必死の形相を思い出すだけでも身震いがする。


そうこうしているうちに、またあの声が聞こえてきた。
「どこにいったぁーーーー!!」
だから、近所迷惑だって。
これを治めるには、自ら目の前に出て行く他はない。それは逃げ場がなくなったときであって、逃げ切れる可能性あるうちは、とにかく疾走あるのみ。


ここに留まっているところで、捕まるのは時間の問題。
2、3歩軽くステップを踏むと、一気に駆け出した。

声が近づいてくる。
振り返ると、そこにあの男がいた。
悪夢再び。
少し休んだおかげで、少しはスピードが上がるかと思いきや、逆に落ちている。中途半端に休んだのが原因か。
しかし、相手も体力の消費が激しいらしく、先程のような快走ではなくなっている。

やがて、人気のない公園に突入した。
ここなら何を叫ばれても心配ないだろう。
見晴らしがよく、隠れる場所がないのが欠点だが。


男も後を続いてやってきた。

突然、思ってもみなかった言葉が飛んできた。
「俺が悪かった。」

急な展開に頭がついていけず、動きを止めて振り返ると、男が土下座していた。その場に近づくことはせず、動向を探る。
「あんたが知り合いの嫌な奴に似てただけなんだ。八つ当たりして悪かった。」
「は、はぁ。」
ただの人違いで俺は貴重な飲みの機会を失ったのか。
怒りを通り越して、開いた口がふさがらない。

「それだけのことで俺は・・・。」
そのまま地面に倒れ込む。コイツのせいで楽しみを失ったかと思うと、通り過ぎた怒りがまた戻ってきた。
無言のまま、相変わらず土下座を続ける男を睨む。座ったおかげでほぼ同じ視線。

「バイト先であんたによく似た年下の店長の愚痴を言っていたら、ちょうどあんたが現れたんだ。いや、本当に悪かった。」
走っている時と同じ声量が公園中に響く。周囲に人がいないのはわかっていても、改めてされると、ものすごく恥ずかしい。
何とも言いようのない恨みを込めて、再度眉間にしわを寄せる。
膠着した状態が続く。
男は俺と目を合わさないよう、必死に何かを画策しているようだった。

すると、
「そ、それじゃあな。謝ったからな。」
さっきまでのあれは演技だったのだろうか。男はその一言だけを残し、脱兎のごとく公園を飛び出していった。

名も住所も知らぬ男。これで去られては追いようもない。しかし、足にはガタが来ており、走るどころか歩く気力もない。
そのまま仰向けに倒れこみ、数分間休んでから、携帯電話で幹事の後輩に連絡を取る。

「もしもし、俺。こっちは終わったんだけど、合流していい?」
「先輩ですか?それがですねぇ、ラストオーダー終わっちゃったんですよ。この後二次会する予定ですけど、どうします?」
え?慌てて時計を見ると、俺が店に着いてから1時間が過ぎようとしていた。

「あ、それと・・・。」
俺が逃走劇を始めた直後、店主が飲みの席に駆け寄り、男のことを教えてくれたそうだ。
あの男は店の常連で、普段は虫も殺せぬ大人しさにもかかわらず、一度飲み出すと、客に絡む癖を持っているとのこと。
俺みたいに、何にも関係ない客に因縁つけることも珍しくなく、その度に男の連れが迷惑料と称して、被害に合った客の分も少し払っていくらしい。
今回のケースも、少し出してくれたと聞いた。

「わかった。でも、今日は止めとく。思いっきり走りすぎてもう無理。」
「了解です。大丈夫ですか?ゆっくり休んでくださいね。」
本気で心配しているのか、口先だけなのかわからないまま、電話は途切れた。
時々聞こえる会場のざわめき。遠い世界の出来事のようで、とてもうらやましく感じる。
これさえなければ自分もあっち側にずっといられたのに。

もう一度、今夜起こったことを整理する。
どう考えても、俺が追われる理由はない。
俺は全く悪くない。
なのに、全速力で走らされた挙句、公園で一人。

「馬鹿野郎!!」

雲がところどころに残る夜空に、腹一杯に吸った息に乗せて、一気に吐く。
頭の中をこの言葉が蠢いていて、外に出したくて仕方がなかった。


まだまだ収まらない。
「この馬鹿野郎!!」

これであの男にも届いただろうか。
少しは反省してくれただろうか。
これに懲りて、少しは酒を控えてくれるだろうか。

夜風が火照った体を覚ます。
頭を完全に冷やしたところで、俺は帰路へと着いた。

僕と付き合って。
初めて見たときから君を好きになった。

僕と一緒に暮らそう。
いつも君と笑っていたい。


朝は僕よりも先に起きないで。
寝顔の君を見ないと落ち着かないんだ。

夜は僕よりも先にベッドに入ってて。
一日の最後まで君が隣にいないと安心できないんだ。


一人で出かけるときは、誰と何するか、正直に伝えて。
僕のいないところで君が他の男と会わないか、不安で仕方ないんだ。

何時までに帰る予定か、必ず教えて。
夜、いつ戻るかわからない君を、一人待つのは嫌なんだ。

泊まるときは、必ず僕に写真をメールで送って。
浮気は絶対に許さないから。


僕の前で自分から話そうとしないで。
君の話は退屈。僕の話の方がずっと面白いよ。

君の物は全て僕があげる。
君なんかよりも僕の方がずっと趣味が良いんだから。

食事は僕が用意する。
君の手料理を食べたことはないけれど、絶対に僕の方が腕は上だ。


オネガイダカラ、ボクノメノマエカラハナレナイデ。



その答えが胸を貫く冷たい感触?
体の中心を伝う紅。

口から息を吸いたくても、酸素が喉を通らない。
眼下で起こった光景を意識すればする程、全身から力が抜けていく。

足、膝、腰、胸。

段階を追って体が折れていく。
自ら作り出した吹き溜まりの中に、仰向けに崩れ落ちていった。
頭を打ち付けた時、僕を蔑む君が見えた。


服を染め上げる液体の温かさも、背中に面している床の固さも、何も感じられない。


朦朧とする意識の中で、君の声が聞こえた。

「さよなら。」


僕の何が間違ってた?

僕に出来たのは、朧げに瞳に映る君の姿を追うことだけだった。

贅沢な指

馴染みのバー。
待ち合わせに少し遅れて店に入る。

「双葉。」
カウンターから呼び止める声。
ブランド物のスーツ。茶髪で大きく開いた襟。そして、派手なアクセサリーで身を固めている青年。

外見の通り、彼の職業はホスト。
ただし、私は彼のお客でもなければ、お店に立ち寄ったことすらない。
関係はただの幼馴染。名前は聡太。源氏名は昔教えてもらったけれど、次に会う日までには記憶から消えていた。
家が近所で同い年だったこともあって、幼い頃はよく一緒に遊んだ。でも一時期、声をかけることすら憚られることもあった。
それから約10年。上京を機に、こうしてたまに2人で杯を交わす仲に戻っている。

東京で会うなり、ホストをやっているな