ただいま逃走中。
理由はよくわからない。
とにかく俺は走ってる。
それだけは確か。
中学、高校とバスケをやっていたから、走ることにはそれなりに自信がある。
大学入学と同時にやめてしまったけれど、まだブランクにはなってない(と思う)。
「待てぇーーーー!!」
一体何の恨みがあって、追いかけてくるんだ?
だいたい、今さっきあったばかりの奴にこんな目にあわされるなんて。
交差点に差し掛かり、迷うことなく左に曲がる。
そこは細い路地へとつながる十字路が連なる道だった。
あいつに見られる前にと、2つ目の道を左に曲がった。
その後、もう一度曲がったところで、息を殺して様子見。
何も知らない男は俺が路地に入ったことなど疑いもせず、まっすぐに突き進んで行った。
とりあえずは撒けた。
大きく深呼吸をして、ついさっきのことを思い出す。
本当なら今頃はサークルの飲み会のはずだった。
開始時間に少し遅れた俺。
主賓でもない俺のために取っておいてくれた席に座り、一杯目のビールを注文しかけたとき、
「おい、謝れよ。」
そう、あの男が言いがかりをつけてきた。
これが初対面。多分。いや、絶対。
既に酒を飲んでいるらしく、顔も赤ければ息にも独特の臭いがついている。
俺を含め、周りは瞬時に何かヤバイ展開になることを悟った。
その目は明らかに俺の顔を見てる。
「おい、今日の金はいいからとにかく逃げろ。」
その声で、両足が自分でも信じられない位のスタートダッシュを始めた。
その様子を見て、名前も知らない男まで追ってきた。
ぱっと見、20代後半から30代前半。俺なんかより体つきもしっかりしている。しかし、サラリーマンには見えない。どことなく動きやすそうな格好。
予想はしていた。けれども、後ろを振り返るのは怖い。
席を立とうとした何も関係のない客は、突然の展開に呆気にとられている。
他の客でにぎわう席と席の間をすり抜け、大急ぎで外へ。
たまにぶつかり、
「すみません。急いでいるもので。」
と、その人に届くように大声だけを残す。
ぶつかった人も最初は不快感をあらわにするが、すぐに事情を悟り、ときには
「兄ちゃん、頑張れよ。」
とまで言われる始末。
これが映画なら、その辺の椅子をなぎ倒して追っ手を阻むのだろう。
そんな都合のいい展開、そう簡単にその辺に転がっているわけがない。
きっと、『自力で逃げ切れ』との思し召しなのだろう。
唯一予想外だったのが、ドタドタとした足取りの割りに速いこと。
俊足とまではいかないが、油断はできない。
店を出た直後からギアをトップに持っていく。
幸い、昔ながらのガラス戸だったため、店内からの勢いを殺すことなく加速できた。
これは仕方ないのだが、扉は開けたまま、店の前の歩道を駆け抜けた。
あの男のことだ。ピシャリと閉めたところに突っ込んででも追いかけてくるだろう。
今の現状はもちろんのこと、ホラー映画のような展開なんて、もっと求めていない。
背中で感じ取れる気配や、歩行者の様子を見る限り、スポーツ経験者の俺とほぼ同じ速さのようだ。
本当に酒が入っているのかと疑いたくなる。
相変わらず、
「待てーーーー!!」
「そいつを捕まえろ!」
と、夜にもかかわらず周囲に喚き散らす辺り、素面でないことは確かだ。
声が上がる度に、俺に視線が集まる。バスケでいいプレイをしたときは最高の気分になれるのに、今は注がれる幾つもの目が気持ち悪くて仕方がない。
しかし、すれ違う人々も、この追いかけっこにかかわりたくないのか、一様にシカトを決め込んでいる。
俺だって、理由も知らないただの通行人に邪魔されたくもない。まして、助けを求める気なんてさらさらない。
はっきり言って、恥ずかしい。人気のないところに雲隠れしたい。
そして、今。
喉からは鉄の味、額から汗が流れ落ちる。
飲まず食わずで準備運動もなく久しぶりに動いたせいか、早くもスタミナ切れ。
こういうのを、『悪い奴に追われてる』というのだろうか。
悪い奴・・・?追われている理由もわかっていないのに?
あんな礼儀知らずな男の存在、記憶の片隅にも残っていないが、いやな思いはした人間よりされた人間の心に深く残るという。
もしその通りだとしたら、あの男に謝らなければならない。
しかし、一方的に謝るのは嫌だし、それ以前にあの男の必死の形相を思い出すだけでも身震いがする。
そうこうしているうちに、またあの声が聞こえてきた。
「どこにいったぁーーーー!!」
だから、近所迷惑だって。
これを治めるには、自ら目の前に出て行く他はない。それは逃げ場がなくなったときであって、逃げ切れる可能性あるうちは、とにかく疾走あるのみ。
ここに留まっているところで、捕まるのは時間の問題。
2、3歩軽くステップを踏むと、一気に駆け出した。
声が近づいてくる。
振り返ると、そこにあの男がいた。
悪夢再び。
少し休んだおかげで、少しはスピードが上がるかと思いきや、逆に落ちている。中途半端に休んだのが原因か。
しかし、相手も体力の消費が激しいらしく、先程のような快走ではなくなっている。
やがて、人気のない公園に突入した。
ここなら何を叫ばれても心配ないだろう。
見晴らしがよく、隠れる場所がないのが欠点だが。
男も後を続いてやってきた。
突然、思ってもみなかった言葉が飛んできた。
「俺が悪かった。」
急な展開に頭がついていけず、動きを止めて振り返ると、男が土下座していた。その場に近づくことはせず、動向を探る。
「あんたが知り合いの嫌な奴に似てただけなんだ。八つ当たりして悪かった。」
「は、はぁ。」
ただの人違いで俺は貴重な飲みの機会を失ったのか。
怒りを通り越して、開いた口がふさがらない。
「それだけのことで俺は・・・。」
そのまま地面に倒れ込む。コイツのせいで楽しみを失ったかと思うと、通り過ぎた怒りがまた戻ってきた。
無言のまま、相変わらず土下座を続ける男を睨む。座ったおかげでほぼ同じ視線。
「バイト先であんたによく似た年下の店長の愚痴を言っていたら、ちょうどあんたが現れたんだ。いや、本当に悪かった。」
走っている時と同じ声量が公園中に響く。周囲に人がいないのはわかっていても、改めてされると、ものすごく恥ずかしい。
何とも言いようのない恨みを込めて、再度眉間にしわを寄せる。
膠着した状態が続く。
男は俺と目を合わさないよう、必死に何かを画策しているようだった。
すると、
「そ、それじゃあな。謝ったからな。」
さっきまでのあれは演技だったのだろうか。男はその一言だけを残し、脱兎のごとく公園を飛び出していった。
名も住所も知らぬ男。これで去られては追いようもない。しかし、足にはガタが来ており、走るどころか歩く気力もない。
そのまま仰向けに倒れこみ、数分間休んでから、携帯電話で幹事の後輩に連絡を取る。
「もしもし、俺。こっちは終わったんだけど、合流していい?」
「先輩ですか?それがですねぇ、ラストオーダー終わっちゃったんですよ。この後二次会する予定ですけど、どうします?」
え?慌てて時計を見ると、俺が店に着いてから1時間が過ぎようとしていた。
「あ、それと・・・。」
俺が逃走劇を始めた直後、店主が飲みの席に駆け寄り、男のことを教えてくれたそうだ。
あの男は店の常連で、普段は虫も殺せぬ大人しさにもかかわらず、一度飲み出すと、客に絡む癖を持っているとのこと。
俺みたいに、何にも関係ない客に因縁つけることも珍しくなく、その度に男の連れが迷惑料と称して、被害に合った客の分も少し払っていくらしい。
今回のケースも、少し出してくれたと聞いた。
「わかった。でも、今日は止めとく。思いっきり走りすぎてもう無理。」
「了解です。大丈夫ですか?ゆっくり休んでくださいね。」
本気で心配しているのか、口先だけなのかわからないまま、電話は途切れた。
時々聞こえる会場のざわめき。遠い世界の出来事のようで、とてもうらやましく感じる。
これさえなければ自分もあっち側にずっといられたのに。
もう一度、今夜起こったことを整理する。
どう考えても、俺が追われる理由はない。
俺は全く悪くない。
なのに、全速力で走らされた挙句、公園で一人。
「馬鹿野郎!!」
雲がところどころに残る夜空に、腹一杯に吸った息に乗せて、一気に吐く。
頭の中をこの言葉が蠢いていて、外に出したくて仕方がなかった。
まだまだ収まらない。
「この馬鹿野郎!!」
これであの男にも届いただろうか。
少しは反省してくれただろうか。
これに懲りて、少しは酒を控えてくれるだろうか。
夜風が火照った体を覚ます。
頭を完全に冷やしたところで、俺は帰路へと着いた。