暁の幻

夢を見ました。

以前から遭いたかったあの人と会いました。
とても幸せな気分になりました。

でも、夢とは残酷なもので、頭が冴えていくにつれて、
世界が崩れていきます。

残っているのは、あの人が目の前に現れたこと。
二言、三言、言葉を交わしたこと。

夢を見たという事実とともに、脳裏に深く刻まれました。


夢の終わりはあっけないもの。
別れの言葉を告げられずに目が覚めてしまいました。


次に会えるのは、虚像の貴方ですか。
それとも、現実世界の貴方ですか。

体を起こしたら、いつもと変わらぬ一日が始まります。
今日は、少しだけ体が軽くなれそうです。


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Leap Out!

先が見えない。
頭に悩み以外を詰められない。
与えられた作業に手がつかない。

僕の身体を貫く視線に怯え、そっと視線を逸らす。
時として聞こえる自分の名前に、思わず耳を塞ぐ。
根も葉もない噂の元にされるのが嫌で、きつく口を結ぶ。

ホラーとは違う、漠然とした恐怖を覚える。
気を抜くと涙腺が緩む。
本心が出せなくて、無理やり笑ってみせる。

息が詰まりませんか?
地面ばかり見て歩いていませんか?
満足してますか?


イイカゲン、気ガ狂イソウニナリマセンカ?


ここを抜け出そう。


走れる余力のあるうちに。
追っ手を払う気力が残っているうちに。
わざとでも笑顔を作る精神力を蓄えていられるうちに。

残りたければ残ればいい。
僻みたければ、そこで勝手にやってればいい。
僕を外して何かしたければ、好きにすればいい。


生憎、そんな奴とつるむお人好しじゃないんだ。


僕は行くよ。


ここから抜け出すために。
遥か高みに辿り着くために。
もう一度心から微笑む自分を取り戻すために。

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S o R a

空ってこんなに青かったっけ。


久しぶりの田舎。
実家近くのバス停。
全く変わらない田舎の町並み。
歩道を覆いつくす昨晩の雪。
乾いた、肌を刺す空気。

そして、頭上に広がる澄んだ青。

何色を混ぜればできるんだっけ。

昔の記憶を辿る。
青と白のグラデーション。
色使いを工夫したくて、黒や緑の配分も試した。

今、絵筆とパレットを持ったら、どんな空を生むだろう。

到着してから、10分以上経っていたことに気づく。

時間を意識しない生活なんて、ここ数年考えたことがなかった。
空を眺める時間ですら惜しむことが、いつしか普通になっていた。

腕時計をバックの奥底にしまい込む。
ここでは、時間に縛られた生活など必要ない。

左肩のバックを掛け直し、もう一度、見上げる。
頭上の絵画は、刻々と姿形を変えていく。


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夢のアト - 1

新宿、高層ビル群。太陽から地表へ、熱と光の過剰投与。
行き場のない熱が至るところにあふれている。

石塚里緒は、その真っ只中を歩いていた。

街頭ビジョンの天気予報は、「赤い太陽」と「35℃」を交互に映す。

黒のリクルートスーツが重く体にまとわりつく。パンプスの底が地面に吸い付く。久しぶりに履いたこともあって、爪先に痛みが走る。

転職の面接。
10月には新しい会社に入る。そうなると、1ヶ月前の9月には辞表を出さなければならない。そこから逆算すると、8月中には新しい会社の内定をもらっておきたい。
そうなると、必然的に熱の逃げないコンクリートジャングルの中を歩き回ることになる。

額に滲む汗をハンカチで押さえる。しかし、収まる気配がない。
つい、通り沿いの店に目が行く。

仕事は体調不良を理由に、一日休みをもらっている。
この後、特に予定はない。
会社の人間にこの姿を見られなければ、夜まで悠々と過ごすことができる。

ここ数ヶ月、彼女は日付が変わる間際まで、貸し与えられたマシンと向かい合う生活をしていた。
家に帰ったら、お風呂に入って寝るだけ。
休日、どこかに遊びに行くなんて、もってのほか。
それが当たり前になりかけていた。

それでも仕事が終わらない。加えて、周囲の人間関係は、里緒が参画した当初から最悪だった。
互いに作業と責任を押し付けあう。力が弱い程、作業負荷の高い仕事を割り当てられる。
誰も助けてくれない。誰もSOSを出さない。

久しぶりに羽を伸ばしたとしても、罰は当たらない。
有休は労働者の権利。
朝、嘘をついて休むことに抵抗を覚えつつ、会社に連絡を入れた。
電話ではなく、メール。
送信ボタンを押した瞬間、肩の力が抜けた。
文明の利器とは、時として弱者の強力な武器となる。

遅めの昼食と少しの休憩にありつくために、長時間座って過ごせる場所を探す。
200m先にファーストフード店が見える。

干からびそうな体に冷水を取り入れるべく、ゆっくりとした足取りで近づく。
しかし、店まであと数歩のところで、動きが止まる。

「あ。」

見知った顔。
相手も気づいた。こちらに駆け寄ってくる。

「直さん!」

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夢のアト - 2

佐々木直人は数年ぶりに会う里緒に驚いていた。

大きな鞄とグレーのスーツ。それにフレームのない眼鏡。
長身で端正な顔立ちをしていることもあり、優秀な社員に見える。


「里緒ちゃん、だよね?」
「はい。直さんもお変わりなく。」

互いに、次の言葉に戸惑う。

「とりあえず、立ち話も何だから、どこかに入ろうか。」

唐突に直人が歩き出す。
それに里緒も従う。

すぐそばのファーストフード店になど眼中にもくれず、里緒が今歩いてきたばかりの通りを進む。
付き合っているわけでもないのに隣に行くのは失礼な気がして、里緒はわずか斜め後ろから彼を追った。

着いた先は、注意深く見てなければ見過ごしてしまうような、小さなカフェ。
客層は、穏やかな午後を過ごす老人から、暇をもてあます学生。
誰もが自分以外には関心がないようで、レジ付近にいた女性店員以外、里緒達に一瞥をくれるものなどいなかった。

店員に案内されるまま、壁際の席に向かい合って腰をかける。
無表情なその女性は、事務的な態度で注文を聞いていくと、さっさと持ち場に戻ってしまった。

「東京で就職したんだ?」
「えっ、はい。」

即答するも、緊張で声が上ずる。

初めて会った時、直人はライブハウスのステージでドラムを叩いていた。
どんなに熱いステージでも淡々とスティックを振るう。
コットンシャツに黒のパンツ姿も相俟って、ステージの後ろから、他のメンバーとは異なる存在感を放っていた。

一方、里緒は、ライブハウスの後方から、その姿を追いかけていた。
友達の縁で付き合っていたボーカルが所属するバンド。
その友達と、もらったチケットを片手に、よく遊びに行っていた。

「今は?もしかして営業の外回り?」
「いえ。転職活動中で・・・。今さっき面談をしてきたところなんです。」

俯き加減に答える。転職を恥じているわけではないが、どこか、後ろめたい気持ちがあった。

「転職・・・か。俺も考えたことあったなぁ。結局、今の会社に居ついてるけどさ。」
視線を逸らし、窓の外を眺める。
せわしなく歩く人々の群れを見て、何かを思い出しているようだった。

「今は営業やってる。今日もこれから取引先と打ち合わせの予定だったんだけど、先方にすっぽかされちゃってね。そういうときはここで大体時間潰してる。社会人は全然来ないし。ここ、意外と穴場だよ。」

程なくして、例の店員が頼んだ品を運んでくる。
トレーには2つのコーヒーカップが並ぶ。

里緒は少しだけ背伸びをした。

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夢のアト - 3

「今、達樹が何してるか、知ってる?」
里緒の背筋に電気が走る。

久しく耳にすることもなかった名前。
彼は直人と同じバンドで、ボーカルを務めていた。
友達以上から、顔見知り未満に落ちた関係。
意図的に情報が入ってくることを拒んだ。結果、今の今まで、存在自体が消えていた。

「いえ、知らないです。」
平常心を装おうとして、両の掌に汗が滲む。

「あいつ等、メジャーデビューまで行ったらしいんだけど、最近解散したんだって。」
「・・・そうですか。」
次の言葉が続かず、俯く。今の里緒にとって、大して興味の沸かない話題。

「そういえば、直さんは今もドラムを叩いているんですか?」
場を取り繕うために、率直な疑問を投げる。

「今は全然。ドラムもバンドも、大学卒業と同時に辞めたんだ。」
『未練』の二文字も感じさせない、さらりとした口調。
そして、里緒にとっては、望まない答えだった。

「大学卒業って、私が行かなくなってからすぐじゃないですか!一体どうして。」
言葉に詰まる。
当時、ワンマンをするには程遠い状態ではあったが、バンド内部の関係は良好だった。
少なくとも、里緒の目にはそう見えていた。

「その前の年の春には就職先が決まっていたし、加入当時からバンドは大学卒業までって決めてたからね。」
それから直人はコーヒーを一口だけ飲み込むと、一度だけ深く息を吸った。

「辞めるときはもめたよ。特に達樹とはね。彼は音楽で自分の存在を世間に認めさせようとしてたから。その歯車として、俺のドラムが必要だったみたい。」
「認めさせる?」
妙な言い回し。その真意を飲み込めず、過敏に反応する。

「達樹の理想は、自分が作る音楽が一番だった。どんな名曲を前にしても、屁理屈を並べて認めなかった。」

嫌な記憶が蘇る。
その日、里緒は達樹との待ち合わせの間、歌詞が良いと評判の曲を聴いていた。
遅れてきた達樹が珍しく興味を示してきたため、仕方なくイヤホンを貸した。
すると、1フレーズも聴かないうちに、イヤホンを投げ返し、里緒に罵倒を浴びせた。
演奏技術が未熟だの、曲に抑揚がないだの、自分の方がもっと名曲にできるだの。
当時は唖然とするしかなかった。しかし、今になってみると、直人の言う通りで、思わず笑いがこみ上げてくる。

「あいつは子供みたいにごねる。それはレコード会社と契約解除された今も変わらないって。」
直人の目は、まるで達樹という子供の面倒を見てきた親のように優しかった。

「最近、彼に会ったんですか?」
「達樹には辞めてから全然会ってないよ。この間、ちょうど聡史に会ったんだ。」

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夢のアト - 4

「聡史はスタジオミュージシャンとして食いつないでるって。」

聡史はメンバーの中で、唯一バンドを掛け持ちしていた。小柄な体つきをものともしないベース弾き。
体全体から繰り出されるパフォーマンスは、しばしばフロントマンの達樹を凌駕することもあった。

「解散が決まったとき、裏方での道を色んなツテを頼って切り開いてもらったんだってさ。あいつの演奏技術、他のバンドからも一目置かれてたしね。」

それだけでなく、彼はピアノも弾けたため、曲によってはキーボードを担当することもあった。
ベースにするか、キーボードにするか。それは彼の一存で決めていたという。
それだけでなく、ギターも弾けたらしいが、直人が辞めた後まで黙っていたらしい。

「ベースほどではないけど、コード押さえる程度だったら弾けたんだって。でも、聡史の周囲はギター弾きばかりだったから、バンドを組むためにベースを選んだんだってさ。」

聡史は直人が加入する1年前、達樹によって連れてこられた。本人曰く、スカウトしたとのこと。しかし、聡史は条件を出した。一つは、もう一つのバンドとの掛け持ちを許可すること。もう一つは、作詞作曲をさせること。

この条件を当時のメンバー、特に達樹は渋々承諾した。
しかし、聡史が曲作りに加わったことで、幅が広がり、デビューに大きく近づいたのは、たとえ結果論であったとしても、まぎれもない事実である。

「達樹は腕の良いベーシストを呼んだはずだった。作詞作曲は達樹の専売特許だったからね。でも、聡史以上のベース弾きが見つからなかったから、仕方なく条件を飲んだ。」

「今だから言えますけど、聡史君が作ってた曲、それまでの曲になかった温かさがあって、好きでした。」

それは難解な旋律にしないこと、奥行きと幅を持たせること。曲作りにおいて、聡史はこの2つを常に心がけていた。一小節に細かな音符を詰め込まず、音の高低を激しくしない。にもかかわらず、単調で似たような曲調にならなかったのは、彼の感性がよかったからだろう。


「聡史が初めて達樹から曲をもらったとき、作曲方針について進言したそうだよ。喉を潰してもいいのかって。」

達樹は聡史と対照的に、難解で激しい曲しか作らなかった。加えて、曲の一部に必ず無理な高音を入れていた。にもかかわらず、喉に負担のかかる歌い方をしていた。
最悪、声が出なくなるかもしれない。聡史はそれを危惧していたのである。

「それを達樹は聞き入れなかった。でも、聡史が忠告した通り、解散する頃にはキーを下げなければ、まともに歌えなかったそうだ。この間会ったとき、聡史はそれを一番悔やんでたよ。」

「私もそれは気にしてました。辛いものは好きだし、お酒も煙草も辞めないし。たまに喉を嗄らしていたし。聡史君も心配してたんですね。」

デビュー後、作曲は基本的に聡史が担当した。それは周囲にいた人間が決めたことで、彼等はそれに従うしか道がなかった。

「周りはわかっていたんだろうな。一番の要になるのは聡史だって。それでも、マンネリ化を防ぐために、聡史以外にも曲は書かせてたって。」

「それじゃあ、あの、窪田さんも?」

直人はわずかに押し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。

「恭平はデビュー前に辞めた。その代わり、事務所が年の近い、新しいギタリストを用意したんだ。」

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夢のアト - 5

「正確には、辞めさせられた。」

「一体、何があったんですか?」

興奮気味に問いかけたものの、里緒にはある程度予測がついていた。
里緒自身、恭平に対してあまり好意を抱いてはいなかった。
むしろ、距離を置いた付き合いをしていた。

「恭平の奴、デビューする前に、清純派のアイドルとしてテレビに出てた娘と写真を取られたんだよ。アイドルと言われてる人間が、普通出入りしない場所でね。」

「それってスポーツ新聞やテレビの芸能ニュースで槍玉に上げられて、しばらく休業しちゃった娘ですよね?最近また見かけますけど。あれ、窪田さんだったんですか?」

直人は里緒の食いつきに戸惑いつつ、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと語り始めた。

「それ以外にも、別の娘との写真も見つかったからね。事態を重く見たスタッフが恭平を問い詰めたらしい。けれど、反省の色一つ見せないかった。それに、普段の素行の悪さもあって、解雇になったそうだ。一応、解雇を言い渡す直前にメンバーへ通達があったけど、誰も反論しなかったってさ。」

事実、恭平の素行の悪さ、特に女癖についてはファンの間でも密かな噂となっていた。しかし、ライブチケットを一番多く捌くのもまた恭平だったため、達樹ですら言い出すことができなかった。

彼は取り立てて顔が整っているわけでも、ましてや性格がいいわけでもなかった。それでも、彼に着いてくる女性は数多くいた。その中でも、付き合っているとしてメンバーにお披露目したのは数人。それ以外の子にはノルマを設け、本人以外の分のチケットも買わせていた。
最初は熱を上げていた女性達も、数ヶ月で恭平との縁を切っていった。
だが、恭平はどこからか別の女性を捕まえ、同じことをさせる。その繰り返しだった。

「私も散々言われたんですよね。女友達を紹介してくれとか。達樹から乗り換える気はないかとか。それが嫌で仕方なくて。達樹にも言ったんですけど、全然相手にしてくれなくて。」

里緒の脳裏に、過去の記憶が鮮明に蘇る。目の前のコーヒーを口いっぱいに含み、喉の奥に流し込む。
口元まで出かかっていた不快感を、全て押し戻したかった。

里緒の様子を察してか、直人はすぐさま話題を変えた。

「恭平の奴、目立ちたいだけで曲に見合わないアドリブなんて入れるから、ギターだけが浮いたこともあった。本来、ギターはドラムやベースが作るリズムに合わせなきゃいけないのに、ちょくちょく乱す。達樹は相当歌いにくかったと思うよ。」

そのことで、ライブ後に達樹と恭平が喧嘩しているのを幾度となく見た。そんな中、恭平抜きでコンテストに出場するようになる。恭平のパートは達樹がギターを担当した。コンテストに出るようになったのは、直人が抜けた後だったが、その頃からデビュー志向が強くなっていった。

「解散してから、聡史が事務所の人に聴かされた話。コンテストで目を付けたレコード会社の人がライブをこっそり見てたんだって。で、コンテストにはいなかった酷いギタリストがいたってことで、大変驚いたそうだ。」
驚いたその人は仲間に相談を持ちかけ、ライブにも連れて行った。リーダーである達樹にも事情を聞いた。
その上で、一つの結論を出した。

直人は一旦喉を潤おすと、真実を語り始めた。

「恭平も事務所に籍だけ入れておいて、デビューまでに何らかの理由をつけて切る。それで話がまとまっていたそうだ。」

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夢のアト - 6

「正直なところ、メジャーデビューするとは思っていませんでした。達樹、どんなに目上の人に対しても上からでしか人を見れないし。人の意見を力で捻じ伏せるし。内心、絶対音楽には向いてないだろうなって。」

里緒が過去に残したわだかまり。本人の前では怖くて口篭っていたこと。本人の目の前ではないが、当時伝えられなかった本音が、自然と口を突いて出てきた。

「それは俺も一緒だよ。だから、最後の最後までバンドを選ばなかった。俺達は音楽とは別の利害で一致してたからね。」

「え?」

「達樹は自分を売るための道具、聡史は自分の腕を試すための場、恭平は女を呼ぶための手段。それに、俺はストレス解消の時間だった。」

直人はコーヒーカップの中を見つめ、初めてバンドメンバーと会った日のことを思い出していた。
前任者は直人の1年先輩だった。彼の大学卒業と同時に、直人が受け継いだ。
就職先が決まり、卒業のためだけに興味のない講義を聴く直人にとって、ドラムは鬱憤を晴らす機会だった。
観客やファンには悪いが、中心に音楽のない集まりでは、それで十分だった。

「名は体を現すというけど、本当だった。"astray gear"ってさ。達也が音の響きだけで決めたらしいけど、直訳すると"道に迷ったギア"。歯車が俺達のことを指すのなら、俺達は最初からバラバラでよかったのかもしれない。」

「達樹、英語は全くできなかったから、未だに意味を知らないんじゃないですか。意味を知ったところで落ち込むことなく、とんでもない単語を拾ってきそうですし。」

「それもそうだ。俺もあれより酷かったら、理由をつけて逃げてただろうし。」

直人が微笑む。里緒にとって、初めて見た表情。ライブでも、ステージ裏でも、人前で笑うことはおろか、口元を綻ばせることすらなかった。
思わず、まじまじと見つめてしまう。

「どうしたの?何かついてる?」

「いえ、あの、直さんが笑うの、あまり見たことなかったから。」
動揺から、余計なことを言ってしまった。気まずい表情をする里緒を見て、直人の口角がわずかに上がった。

「聡史にも同じことを言われたよ。あそこは息苦しい場所でしかなかったからね。」

直前のステージ裏はともかく、終わった後でさえも、互いに気を許さない緊迫感があった。
曲の合間、達樹が喋る後ろで次の曲を終えたメンバーに笑顔も、ましてや彼の話に同調することもなかった。
ライブを見にきた客の中で、達樹以外の声を聴いた人は、果たして何人いたのだろうか。

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夢のアト - 7

ふいに直人は腕時計に目を落とす。

「もう少し話していたいんだけど、そろそろ次の客先に行く時間だ。つまらない話に付き合ってもらって悪かったね。コーヒーは僕のおごりだから、ゆっくりしていって。」

「こちらこそ根掘り葉掘り聴いてしまってすみません。」

準備を始める直人にあわせ、里緒も席を立つ。
続けてバッグの奥底に隠れてしまった財布を探す。

やっとの思いで財布を取り出したとき、直人は二人分のお会計を済ませ、外に出ようとしていた。
慌てて追いかける。

「やっぱりお代。」

「いいよ。誘ったの、俺だし。」

「・・・ごちそうさまです。」
深々と頭を下げる。

顔を上げたとき、優しく、温かな眼が飛び込む。

「それじゃ、転職活動頑張ってね。」

直人が進行方向を決める一歩を踏み出したその時、里緒の記憶の中にいた、直人の姿と重なった。

「煙草、辞められたんですね?」

「え?まだ1ヶ月も経ってないけどね。」
突然のことに直人は驚き、里緒を凝視する。

「これからまた仕事なのに、呼び止めてしまってごめんなさい。」

「辞める理由ができたからね。」
素っ気ない答えに、里緒は違和感を覚え、怪訝な顔をする。
一瞬、直人が照れ隠しをしているように見えたからである。

「半年前に結婚したんだ。それに、この間、子供ができたことがわかったからね。だから辞めることにしたんだ。」

「そうだったんですか!おめでとうございます。じゃあ、お相手は?」

無言で口元を綻ばせる直人を見て、里緒は自分のことのように喜ぶ。

「落ち着いたら、家に呼ぶよ。アイツも里緒ちゃんなら喜んで歓迎してくれるだろうし。」

再び、直人は時計の針を確認する。

「それじゃ。客先に遅刻するから。連絡先は変わってないから、もしよかったらメールして。」
それだけ言い残すと、足早に去っていった。

残された里緒は、すぐさま駅へと続く道を目視確認する。
それから、背筋を伸ばし、確かな足取りで一歩ずつ踏み出した。

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Why do you sing a song? - 前編


駅前に設けられた広場。
夜毎に集まるウタウタイ。

特に仕事もプライベートもない夜、僕は決まってここに足を運ぶ。
半分仕事。半分趣味。

プロの作曲家としてもうすぐ10年。
その前の数年間、バンドの一員として表舞台にも立っていた。
バンドを解散し、裏方に回ってからは、暇を見つけてはこの広場に立ち寄ることにしている。
一つつは初心を忘れないため。
もう一つは、自由な音を取り込むため。

人の足を止める音色。
思わず耳を塞ぐ、自己満足の雑音。


あの時もそうだった。


* * *


夏のある夜。
初めて見る少女。

酷い。
曲は言わずもがな、ギターの音が滅茶苦茶。チューニングができていない。
周囲は閑古鳥が鳴いている。

でも、声はいい。
高音で、しかし嫌味のない柔らかさ。

いても立ってもいられなくて、声をかける。

「家にいてもつまらないから。」

自分の投げた言葉だけが抜けたワンシーン。
彼女の鋭い眼光と、その一言だけが僕の胸に今も焼きついて離れない。


翌日。
ライブの準備をする彼女に遭遇した。

どう頼んだのかは忘れたが、彼女からギターを借りることに成功した。
手書きの譜面にあわせて、そっと爪弾く。
それにあわせて、彼女が歌声を乗せる。

琴線のような、細くて、けれどもしっかりとした響き。
熱帯夜にはちょうど良い。


「ナギサ。」
「?」
「わたしの名前。」

ライブ終わり、彼女から話しかけてくれた最初の言葉。

僕は何も言わずに名刺を渡した。

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Why do you sing a song? - 後編


あの日から丸2年。
今日から「ナギ」という名前で舞台に立つ。
彼女の本名、「和ぐ」、「凪ぐ」を混ぜた。
心を静め、落ち着かせる。ナギを取り巻く全員が目指す方向を名前に込めた。


彼女から連絡を貰ったとき、一通りの準備と並行して、彼女の両親にも会った。
しかし、反対するでもなく、賛成するでもなく、まるで世間話を聞いているかのような反応。
隣で聴いていた彼女は、予想通りの反応に胸をなでおろす。

僕は都合よく受け取って、着々と準備を進めた。


ライブ開始十分前。
CDショップのイベントスペースが今日のステージ。
ナギとしては初めてのライブ。
僕はスタッフの一人として、彼女を袖から見守る。

ステージに向かう直前、僕は頭に浮かんだことをそのまま口にした。

「一緒に楽しめる人がいるからだよ。」

答えが返ってきた瞬間、始めて会った日のことが脳裏に蘇る。
あぁ、あの時も同じことを訊いたんだ。

後姿をそっと見送りながら、彼女の成功を祈った。


* * *

今日もまた駅前を散策する

ナギは次々と売れていき、今は僕の手の届かないところにいる。
たまに連絡をもらうことはあるが、仕事での付き合いはほとんどない。

デビューしてから、彼女を取り巻く環境は劇的に変わった。
それは身近にいた僕が一番よく知っている。

だからこそ、彼女にあのときと同じ問いかけをしたい。
彼女の歌声が日の目を見た今、どんな答えをするだろう?

願わくば、ナギとして歩み出したあのときと同じ言葉でありますように。

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M A S K - 1


10分前。
時計を何度も確認する。
ビルの1階に構えるコーヒーショップ。

東京に出てきて初めて掴んだ、田舎娘だった頃からの夢。
最近になってその叶え方がわかった。

女優。
今はその他大勢の端役。
次は台詞のある役。
それから、主役の近くに現れる役。
ゆくゆくはエンドロールの先頭、もしくは最後に名を連ねる。
なれるのは、ほんの一握り。
絶対にその中に入る。


今日は、そのための大事な日。
事務所の人から、「オーディションに受かった」との電話。
主人公の同級生という設定。
漫画が原作になっているドラマ。
昔、読んでた。
確か、主人公を囲んで歩くうちの一人。

そんなことはどうでもいい。
台詞があって、出番があって、何より、エンドロールに私の名前が表示される役。
ようやく、その他大勢から抜け出せる。

そのことで呼び出された。
待ち合わせまで、あと5分。

体に緊張が走る。
携帯電話に連絡が入っていないかを確認し、周囲を見渡す。

まだ来ない。
アイスコーヒーに目を落とす。
席についてから、まだ一口もつけていない。
グラスの側面から水滴が流れるのを見やる。

もうそろそろ来てもいい頃なのに。


突然、背後から肩を叩かれた。

「幸穂じゃね?」

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M A S K - 2


振り向きそうになる首を自制する。

もう聞くことはないと思っていた声。

昔の私を知っている男。
私の行く手を何度となく阻み続けた男。

もう、切れたものだと思っていた。
まさか、こんなところにいるなんて。


「人違いです。」
体の奥底から搾り出した嘘。


「は?何馬鹿言ってんの。深川幸穂だろ。」
「違います。」
「じゃあ、何て名前だよ。」
「藤下ユヅキ。」

芸名。上京後の、今の私の名前。
決して偽名ではない。


「嘘付くなよ。俺の女だった癖にさぁ。」
誰もいない、目の前に座り、嫌らしい目を近づけてくる。
思わず顔を横に背ける。


付き合っていたことはあった。
けれども、半年と持たなかった。
原因は、私が疲れたから。
次第に壊れていくのが怖くて仕方がなかったから。


「次は漫画の登場人物で偽名か。幸せの穂で『サチホ』が本当の名前だろ。」

事務所の人と考えた、大切な名前。
優しい月でユヅキ。
それから、苗字は母親の旧姓。
思いつきで名乗ってなんかいない。

俯き、閉じた唇に力を込める。


「じゃあさ、証拠は?」

「え?」

「だから証拠。あんたの名前が藤下ユヅキさんって証拠だよ。」

「そんなもの、持っているわけ・・・。」
バッグの中に入っている、保険証、銀行のカード。
全て、本名。
この場で出せるわけがない。


「わかりやすい嘘なんか付くんじゃねぇよ。」

テーブルの脚を蹴り付ける。

はっと息を呑む。
動悸がする。
鏡を見るまでもなく、顔が青ざめていくのがわかる。

誰か助けて。

その時、バッグの底から、携帯電話が小刻みに揺れた。

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M A S K - 3


バッグを抱えたまま、店内のトイレに向かう。
立ち上がった瞬間、伸びかけた腕が見えた。
しかし、私が店を出ないとわかると、その手を上に伸ばし、左右に軽く手を振った。

席に戻ったら捕まえる気だ。
どこまでの嫌な男。

都合よくというべきか、トイレに先約はいなかった。

ここならあの男は入ってこない。
ドアの鍵を閉め、誰も入ってこないことを確認してから、バッグの底に手を伸ばす。
見覚えのある番号に藁をも縋る気持ちでボタンを押す。

「待たせちゃってごめんね。」
聞き覚えのある声に、安堵の涙を流す。

「実は・・・」
声を詰まらせながら、状況を説明する。
待ち合わせに指定された店とはいえ、あの席には戻れない。
とはいえ、あそこは入り口に近い席。
あの男に悟られずに外にでるのは不可能。


「助けて、ください。」
一時的な密閉空間の中で、救いの手を求める。

音が途切れる。
不安と期待が交じり合い、より心拍を上げていく。
鼓動で胸が痛い。

「もう少しで着くから、もうちょっとそこで持ちこたえてくれない?」
返事をする間もなく、一方的に通信は途絶えた。

入れ替わるようにして、ノックする音が耳を劈く。
ここには長くいられない。

考えを張り巡らせる。
どうすれば自然に出られるのか。
どうすればあの男から逃げられるか。


不意に鏡を見た。

涙で崩れた化粧。
女優の顔じゃない。
こんな顔では外に出られない。


頭の中で絡まっていた糸が一度に切れた。

そう。
ワタシは女優。

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M A S K - 4


高校に通っていた頃から、演劇の世界にのめりこんでいた。
部活はもちろん、バイト代を貯めては、観劇のチケット代につぎ込んでいた。

あの男、もう、名前すら思い出したくない、私の中での最大の汚点と出会ったのは、高3の春。
バンドを組んでて、音楽の専門学校に通ってるとも言っていた。
でも、ライブのチケットを強引に売りつけてくるばかりで、今思えば、恋愛の対象というよりは、ただの金ヅル。
事前に予定が入っていることを伝えていたとしても、である。

おかげで、何度観たかったお芝居をキャンセルしたことか。


最初は泣きながら理由を繕っていたが、最後は完全にシカトしていた。


秋、最後の文化祭が近づき、練習に熱が入るに連れて、会うのも、連絡も取るのも億劫になってきて、文化祭の公演を前にして自然消滅した。


当時、仲良くなったバンドのメンバーを通じて、夏休みが終わった頃から他の女に乗り換えたことを知った。私はそれを自然に受け入れた。周囲の心配をよそに、あの時の私は酷く落ち着いていた。

おかげで、尾を引くことなく、夢にのめり込む事ができた。


そして今は新しい名前と女優という肩書きを盾にして演者の道を歩く。
あの男のいない、華やかな世界の上に立つ。

覚悟を決めて化粧ポーチを取り出し、部活仲間から教わったメイクを自分に施す。

マスカラとアイラインで目力を強調。
艶のある赤の口紅で、年上の女に近づく。


最後に鏡で全身を確認すると、颯爽と外に飛び出した。

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M A S K - 5


「待てよ。」

レジを通過する直前で捕まった。
左肩に指が食い込む。

「お前の席はこっちだろ?」
右手の人差し指で示されたのは、さっきまで座っていたあの席。
しかも、アイスコーヒーが半分減っている。
気持ち悪い。

敢えて言葉にはせず、冷ややかな視線を飛ばす。

「悪いねぇ。口つけてないみたいだから飲んじゃった。」
"幸穂"ならその場で謝罪を要求する。
今は藤下優月という別人。
赤の他人に感情をむき出しすることに価値はない。

ワタシは女優。

「どうぞ、ご自由に。」
グラスに対して一瞥をくれた後、肩にかかった掌を振り払う。

「何するんだよ。なぁ、昔は一昼夜を供にした仲だろ?」
よくも抜け抜けと。実際、夜遅くまで一緒にいたのは、ライブの打ち上げの時だけ。
二人きりだったのは、休日の昼間しかなかった癖に。
でも、この場では初対面の人違い。

ワタシは女優。

「一昼夜・・・ねぇ。職業柄、色々な男と昼夜を問わず会っているの。仮に貴方と顔を合わせたことがあったとしても、いちいち覚えてなんかいられないわ。」
右足を踏み出す。
続けて左足も前へ運ぼうとした瞬間、体のバランスが崩れた。

その場に倒れこむ。
何が起こったのか、頭の整理がつかない。
上体を起こして見上げる。

男の腕が真っ直ぐに伸びている。
突き飛ばされた。

傍にいたアルバイト店員は、何が起こったのかわからず、オロオロしている。

「いい加減にしろよ。認めろよ。俺をバカにするなよ。」

忘れていた。
あまりにも思い通りに行かないと、癇癪を起こす。
当時、バンドのメンバーに当たることさえあった。

逃げなきゃ。
でも、ここで事務所の人が来るまで何とかして時間を稼がなければ。
こんな些細なことで、今までの努力を棒に振りたくない。
私は今の好機をすがり付いてでも守る。
そのためには手段を選んでいられない。

ワタシは女優。

「人目も気にせずに力で制圧?貴方がしたいのは、嘘の自白強要?」
ゆっくりと立ち上がり、髪を掻き揚げる。
随所に残る痛み。我慢すれば何ともない。

「通報、しますよ。」
「やれるものならやってみろよ。その名前が本当ならさぁ。」
逆効果。怯むどころか、さらに吠える。
本当に警察に連れて行ったら、何が何でも本名を名乗ることになるだろう。
ちょっとした脅しのつもりが、完全に不利になってしまった。


形勢逆転の一手が出てこない。
顔がこわばる。

正面にいる、あのにやけた顔つきから目を逸らしそうになる。
逸らしたら、真実を認めたことになる。
音を立てて崩壊する未来は絶対に嫌。

それを突きつけられるのが怖い。

「そこまで。入り口でウチの子いじめるの、やめてくれない?」
入り口の自動ドアにスーツ姿の男。

やっと来てくれた。

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M A S K - 6


「お待たせ。ユヅキちゃん。前の仕事がおしちゃってさぁ。」

「井口さん!」
防衛本能から、現れたばかりの井口に抱きつく。
腕を相手の背中に絡め、頭を埋める。

「おい、その女をこっちに渡せよ。」

背後から醜い叫びが聞こえる。

「本当にあの人、知らないんです。誰かと勘違いしてるみたいで。」
腕に力を入れ、井口の体を少し圧迫する。
今さっきされた仕打ちを恐怖に変換し、肩を震わせる。

「だって。しつこい男は嫌われるよ。」
井口の腕が後ろに回り、きつく押さえつけられる。
あの男に見せ付けるためだけの、即興の恋人。

「そういえば、君、ちょっと前にゴシップネタになったよね?売り出し中の子に手を出したとかでさ。」

え?
声が漏れそうになるのを必死で堪える。

店内の、他の客に聞かせるつもりなのか、わざと大声で続ける。

「君がいたバンド、メジャーデビュー寸前だったってのに、君のスキャンダルのせいで全て白紙。苦肉の策で、君だけクビで、バンドはめでたく先日デビュー。」

知らなかった。あの男の方が先に芸能界の足がかりを作っていたなんて。
目指す方向が違うとはいえ、同じ世界にいたなんて。
脳内に落雷が落ちたかの衝撃。体が硬直する。

「他にも浮いた話は数知れず。本業はサッパリな癖してさ。」

地元にいたときからそうだった。他のメンバーの調和を乱す音。
ギター担当だっただけに、目立つことだけは忘れていない。
あの男が目立つ度に、少しだけ見えたメンバーの苦い顔が思い起こされる。

「それとその女とどういう関係があるんだよ。」
大声で喚き散らす。
まるで親の言うことを聞かない子供のよう。
たった数分のことなのに、第三者が介入するだけで、こんなにもつまらない男に成り下がるなんて。

どうして高校時代の付き合う前に見抜けなかったのだろう。


「どういうって、僕の仕事は君みたいな男から女の子を守る関係。」
「それじゃ、こいつも。」

「そういうこと。それじゃ。」

井口は私の掌を握ると、店の外へと駆け出した。

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M A S K - 7


「さっきの男、案外小心者なのかもよ。虚栄心で動いているっていうかさ。」
井口の運転する車。近くの路肩にひっそりと止まっていた。
途中、何度か振り返ったけれど、追いかけてくることはなかった。


「あいつがまだバンドに所属していた頃、一度だけ仕事で観にいったことがある。」
しばらくして、独り言に近い語りかけが始まった。
エンジン音にかき消される声を一心に拾い集める。

「あそこまで空気を読まない演奏、初めて聴いたよ。他のメンバーはいい演奏してるのにさ。」

昔、地元のライブハウスで観ていたとき、同じ時間に出ていた他のバンドのファンの子が皮肉ってた。

「あのバンドのギター、演奏は素人以下だけど、パトロンが多いからチケットだけはさばけるんだって。」
「だからメンバーも手放さないんだー。そこまでしなくても十分集客できるのにね。」

あのときほど惨めな気分になったことはない。
とはいえ、毎回強引に売りつけられる現実から、それを否定する勇気を持つことができなかった。

「もし、ウチの事務所なら、最初から彼以外のメンバーで契約したかな。」
不快でしかない記憶に割り込むようにして、現在に引き戻される。
さらりと言いのけられた一言に、毒が見え隠れする。
しかし、全く冗談に聞こえない。大方、事実なのだろう。


「そうですか。私も、もしあの男と同じ事務所だったらと思うと、背筋がぞっとします。」

助手席の窓を流れる風景を眺める。
青空の中に、綿菓子のような雲がまばらに見える。

気を紛らわすにはちょうど良い。
目的地に着くまで、何も語りたくない。
あの男のことは何一つ思い出したくない。私にとっては今が一番重要なのだから。


「あの男、本当は知り合いなんだろ?」
突然の問いかけ。鋭い槍を喉元に突きつけられた気分に襲われる。
狙っているのか、何気なくなのか、全く読めない。

知り合いどころか、あの男の彼女だった事実は消えない。
ここで本当のことを話したら、井口を騙すことになる。

でも、それは過去の話。
深川幸穂が背負うこと。

今は藤下優月。


ワタシは女優。

薄っすらと笑みを浮かべて答える。
「いえ。藤下優月の知り合いにあのような男はおりません。」

「そう。」
井口の口元が綻んだ。そんな気がした。


二人を乗せた車は大通りを一気に加速し、ビルの隙間へと消えていった。

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カイラク - 1


「動機?半径30cmの外で起こっている平和を壊したかったから。」


飛散するガラス。
落下する欠片。
悲鳴を上げる主婦。
泣き叫ぶ子供。

平日白昼、雑貨店のガラス食器売場を襲撃。

右手には現地調達の綿棒。
別の売場からせしめてきた。

陳列されたワイングラス。
胸元ほどの高さに、隙間なく並べられている。
店員の並々ならぬ努力の賜物か、奥から手にとって見定める客がいないだけか。
店の事情なんて、今はどうでもよい。

幸い、周囲に人はいない。

手前の通路をバッターボックスに見立てる。
両足を肩幅程に広げ、綿棒を両手できつく握り締める。
ゆっくりと深呼吸した後、大きく一振り。

棒先がグラスに触れる。
あるものは脚が折れ、隣のグラスを巻き添えにして倒れる。
芸術からずっとかけ離れたドミノ倒しが至る所で発生する。
また、あるものは、十分に凶器となり得る鋭利な角を現す。
仮にワインを注げたとしても、口を付けることはできない。

他にも、細かく砕かれた小さな欠片が扇状に軌跡を描く。
蛍光灯に反射して煌く様に、思わず見とれる。

同時に、幾重にも連なった不協和音が店中に響く。
周囲の客が異常に気づき、叫び声を混ぜる。

日常が壊れた。
平穏が失われた。

全て、自分の両腕が変えた。


思い描いていた通りの展開。
自然と口元が綻ぶ。


突然の出来事に慌てふためく客。
観察しているだけで快感すら覚える。


騒ぎを聞きつけた店員が、すぐさまこちらに走ってきた。


反射的に足が動く。
今でも認めたくないが、「悪いことをしている」という本能が働いたのだろう。


手にしていた綿棒を足元に投げ捨て、その場を走り去った。

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カイラク - 2

計画を思いついたのは2週間前のこと。

何も起こらない日常。
進展のない生活。

平凡すぎる毎日に嫌気が差す。


そんなある日、突然閃いた。
日常を壊すストーリー。
主役はこの僕。

悪魔の囁きなんて安いものじゃない。
刺激が足りない中で生み出された名案。

それと同時に、プロットもすんなりと出来上がった。


標的にしたのは、2つ先の駅前にある、地元タウン誌で紹介される程度の雑貨店。
しかし、一度たりともこの店に入ったことがない。

そこはガラス張りのテナント。
外にいても、フロアの配置がよくわかる。
ゆったりと設けられた通路以外は、様々な種類の雑貨が整然と置かれている。
だからといって、お客に緊張感を与えているわけでもない。
空間利用術に長けた人間が設計したのだろう。

置かれているのは、明らかに女性が手にとって買って行きそうな商品ばかり。
お洒落と無縁な人間には、全く入る余地のない空気を匂わせている。

また、店員はバイトらしき若い女性が2人。

臆病者な僕が選んだのは、少しでも成功する見込みのある要素が詰まった場所。

別に店側に過失があるわけではないが、偶然にも望んでいた条件と一致していた。
それだけの理由で、この店を選んだ。


クローゼットの中で一年以上眠っていたダウンジャケット。
スキー用の帽子。グローブ。サングラス。
全て引っ張り出す。

当日の行動を思いつく限り脳内の原稿用紙に留めては、何度も推敲する。
都合の良い展開が仕上がる度に、含み笑いが漏れる。


このとき既に、「タメライ」の四文字は、脳内から抹消されていた。

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カイラク - 3

駅までは一直線。
改札めがけて駆け抜ける。

イメージの中では俊足のつもりだった。
現実は、描いていたものとは似ても似つかない鈍足。
ダウンジャケットの裾が邪魔で、足を振り上げることができない。
それから、息切れから来る喉の痛み。
鉄の味さえしてくる。

やっとのことで駅構内に滑り込む。
しかし、息を整える暇はない。
予め購入していた帰り分の切符をポケットから取り出し、自動改札に突っ込もうとしたその時。

不意に、袖口を勢いよく引っ張られる。
切符を掴んだまま、後ろに倒れかける。

振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。
口元に表情はなく、両目とも僕の瞳を追っている。

切符を持った右手の手首に熱を感じる。

急に全身が強張る。

彼女が僕の何を知っている?
今ならまだ間に合う。
そのためにはこの手を解かなくては。

何度も自分に言い聞かせる。
しかし、体が言うことを聞かない。
次第に焦りが生まれる。

その隙に、今度は黒い手帳をちらつかせた。
巡回中の私服警官。

シナリオには出てこなかった人物の乱入。
そんな展開、想定なんてしていない。
できるわけがない。

改札の向こうには、駅へと続く階段が見える。
あと数秒早く辿りつけていたら、今頃は悠々と電車のシートでくつろげたのに。

右腕を左右に揺らす。
血の通った枷がそれを邪魔する。
揺れを諌めるために、締め付けをきつくされる。

痛い。
跡ができていてもおかしくない。
明らかに自分よりも小柄なのに。力があるとは思えないのに。


遠くで発車を告げるベルが聞こえる。
時刻表通りなら、きっと、自分が乗る予定だったもの。

今の気分を例えると、一番乗りでゴールテープを切る直前で、監督に手をかけられたマラソン選手のよう。
大きく肩を落とし、項垂れ、その場に蹲る。

仮に、今、この女刑事の手を振りほどいて改札を抜けたとしても、狭い構内の中、追走をかわすのは至難の業。ここで終わりか。


後のことは覚えていない。
きっとあの女に引っ張られるようにして警察署に連れて行かれたのだろう。

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カイラク - 4

拘留されていた間、何をしていたのか、殆ど記憶にない。
が、数日の間に、一般人へと戻っていた。

あの雑貨店はどうなっているだろうか。
興味本位から、近くまで行ってみることにした。


とはいえ、店内に堂々と入る勇気はない。
通りを挟んだ向こう側から、さり気なく様子を伺う。
フロア内の配置は少し変わっていたが、客の入りを考えると、それほど大きく影響はでていないようだ。


ふいに、取り調べを受けていたときのことを思い出す。

見当違いなことばかり吐く初老の刑事に、幾度となく動機を問われ、咄嗟に噛み付いた一言。

「動機?半径30cmの外で起こっている平和を壊したかったから。」

すぐさま、思い切り頬を叩かれた。

「君が壊したのはあのお店でも何でもない。君自身だ。」

一世代前の、熱血モノのドラマか。暑苦しくて苦手だ。
息巻く刑事を見るのも鬱陶しくなり、終いには反省しているふりを突き通していた。


無駄な時間だけを費やした取り調べの後、一緒にいた若い刑事に言われた言葉。
今も強烈に脳内を刺激する。

「君はさっき『平和を壊したかった』と言ってたけれど、そんな小さなことでは壊れたりしないよ。無意識に元に戻す力を持っているからね。また同じことをするのは勝手だけれど、君みたいな中途半端な論理じゃ、現行犯でなくてもすぐに捕まえるさ。」


それから押しの一言。

「次は容赦しない。」


若い刑事の言葉は十分に的を射ていた。
店の姿を目の当たりにして、やっと理解できた。

僕がしたことがあまりにも小さく、馬鹿げていたことを。


店員と目が合った。
そんな気がした。

途端に悪寒が全身を襲う。

そろそろ帰ろう。
爪先を駅へと向けたとき、背中を強風が後押しした。

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Tumbling Tube - 1

雲ひとつない新月の夜。閑静な高級住宅街。
一角にある、一際目立つ新築の家。

その二階では、ベランダから侵入した若い男が粗探しをしていた。
クローゼット、鏡台、机。
棚や引き出しを開けては目当てのものだけを取り出し、手際よく袋に詰める。

その傍らでは、ベッドの中で20歳位の女が、寝息を立ててぐっすりと眠っている。
この家の一人娘。両親は旅行に出かけており、ここ数日は彼女が家を預かっていた。
にもかかわらず、今夜は酒を大量に飲んでおり、多少の物音では目が覚めない。

粗方引っくり返したところで、一杯になった袋を肩にかける。
そのまま逃亡するかと思いきや、部屋を出る寸前で体の向きを変え、ベッドに近づくと、未だ安心して眠りに着く女のおでこを小突いた。

「痛ぁ。」
甘ったるい声を出して、両目を擦る。
体内に酒が残っているのか、知人と思しき名前を挙げながら、眼前に作られた人の影に向かって語りかける。
だが、影の正体を捉えた瞬間、両目を見開き、息を飲み込んだ。
恐怖で全身が硬直している。抵抗することも、助けを呼ぶこともできない。


「7年ぶりだね。藤野絵美香さん。僕のことなんて覚えていないだろうけど。」

絵美香と呼ばれた女は首を左右にぎこちなく動かし、知らないと動作で訴えた。

「やっぱりね。加害者は被害者のことをすぐ忘れるって言うけど強ち嘘じゃないね。西島佑一って言えば通じる?」

彼女は尚も首を横に振り続ける。両目から大粒の涙をこぼす。

「中学に入学してすぐ、盗難騒ぎの犯罪者扱いしたこと。あの事件のせいで、僕は退学になった。せっかく入学した名門私立だったのにさ。それに、僕が辞めた後、冤罪だってわかったんだってね。」

彼女は首を振るのをやめ、目を背けようとした。
西島は上半身を傾けると、口元に右手を当てて捻り、顔を正面に向けた。

「でも、君を恨んでいるのは僕以外にもいた。今日は復讐の一部を手伝いにきた。」


肩にかけていた袋を彼女の視界に入る位置で持ち上げ、冷たく言い放つ。

「これ、君がいろんな人から取り上げたもの。君にとってはもう価値のないものかもしれないけれど、その人にとっては宝物ってものまである。元々はその人のものなんだから、返してもらうよ。」


西島はベッドから離れると、ベランダに向かって歩き出した。部屋を出る直前、先ほど詮索したばかりの机に目を落とす。

「これ・・・。」

足を止めたまま、筒を手に取る。
中には綺麗に色づけられたジェル。
筒の中央には、穴が3つ開いた仕切り。そこを、細くなったジェルの筋道が下の筒へと流れて溜まっていく。
再現性のない、何とも不思議な光景。ずっと見ていても飽きない。
しかしながら、肝心の名前がわからない。

引き出しに気を取られて、机上にあまり意識を向けていなかったのか。

「そ、それは盗らないで。」
掠れと震えが入り混じった声。愉快犯ならそれを快楽に感じるかもしれない。
しかし、職業柄、彼自身はそういった感覚を持ち合わせてはいなかった。

「これ、大切なんだ。じゃあ、もらっていこう。」
依頼を受けたものではないが、興味が沸いた。
一つはこの筒に。
もう一つは、彼女の今後の反応に。


ベッドの上で狼狽する彼女を尻目に、西島はそっと部屋を抜け出す。
軽い足取りでベランダに出ると、マジシャンが十八番の手品を見せるが如く、自らの姿を煙に巻いた。

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Tumbling Tube - 2

茫然自失のまま、絵美香はベランダに出た。
周囲を見渡したところで泥棒の行方はわからない。
夜風が肌を刺激するおかげで、徐々に冷静さを取り戻す。同時に、事実を受け入れる余裕が生まれた。

諦めて部屋に戻り、もぬけの殻と化した部屋を一望する。

あの筒は、お土産として両親からもらったもの。
ただの置き物と見なされるわけにはいかない。


そういえば。
あの男が自ら名乗っていたことを思い出す。

ニシジマユウイチ。

一音一音声に出してみる。記憶の糸を手繰り寄せる。

中学入学当時。
わずか1ヶ月で退学した、右隣の席にいた男。
私の財布が消えた。
彼の机から見つかった。
結果、彼は学校を去ることとなった。

彼の退学が決まった後、同じクラスの別の男が、床に落ちていた財布を西島の机に突っ込んだことが発覚した。当時、騒ぎが大きくなりすぎて、なかなか言い出せなかったとのこと。その日の放課後、担任と一緒に謝罪をしに西島家を訪れたところ、門前払いを食らったと聞いた。
しかし、騒ぎを大きくした当の本人は、その間何もしていない。
私は悪くない。私は騒ぎに巻き込まれただけ。

終始被害者を貫いた。

それを今更、一体何のために目の前に現れたのか。
今わかっているのは泥棒の本名。それだけが唯一の希望。

絵美香はしばらく頭の中で様々な試行を繰り返した後、部屋に置かれている電話の子機に手を伸ばすと、「1」「1」「0」の順に、一つずつ確実にボタンを押した。

「もしもし、警察ですか?泥棒に入られました。」

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Tumbling Tube - 3

深夜にもかかわらず、警察が押しかけてきた。
盗難が確認されたのは、絵美香の部屋だけらしい。
この日は簡単な現場検証だけで、聴取は翌日に繰り越された。

「だから、西島佑一って名乗ってたんです。ここに写ってる、この男。」
入学式の集合写真に爪を叩きつけるように、何度も指差す。
写真の隅に写る、野暮ったい顔をした、肉付きの良い少年。
昨晩現れたのは、体操の選手かダンサーを髣髴させる絞った肉体に、精悍な顔つき。
写真の彼がそのまま成長した姿とは到底思えない。

だが、西島と絵美香の接点はこの写真一枚のみ。彼女が持ち得る、唯一の資料。
にもかかわらず、刑事の発言は、彼女の期待を裏切るものだった。

「最近話題の泥棒ね。本名と写真の情報提供はありがたいけれど、あまり期待できないよ。本名なら他の被害者の前でも名乗っているけれど、なかなか捕まらない。何せ、自分の欲とは関係ないところで動いているからね。おまけに予告もないから、出現場所に当たりもつけられない。」

「とにかく私は盗まれたものを返してほしいの。御託を並べる暇があったら、探し出してちょうだい。」
間髪入れずに一回りは上と思われる刑事を怒鳴りつけると、そのまま警察署を後にした。


数日後、絵美香の携帯電話に吉報が飛び込んできた。
「重要参考人ですか?今から行きます。」


軽やかな足取り。
胸を躍らせる。

しかし、通されたのは、取調室の様子を一望できる通路。
聞けば、「本人かどうかを確認してください。」とのこと。

本人の襟首を掴む暇も与えられない悔しさを顔に出す。
口や態度で訴えれば、追い返される。もどかしさを胸中に押し隠し、参考人が現れるのを待った。

数分後、担当の刑事に連れられた男が取調室に入る。
最初は俯き加減だったが、絵美香の存在に気づき、わざと目を合わせてくる。

毒や覇気のない瞳。それ以外は昨日と同じ。以外とすんなり見つかったんだ。


部屋に集まった一同が着席し、いよいよ取調べが始まる。
絵美香も固唾を飲んで、行方を見守る。

「刑事さん、いつもご苦労様。」
開口一番、全く予想していなかった一言が飛び込んできた。

「悪いけど、僕は佑一じゃない。」

絵美香に衝撃が走る。
周囲の刑事は、顔色一つ変えることなく、自分の役割をこなしている。
同じことが何度も繰り返されているのか、顔からは諦めの色さえ伺わせる。

「僕は双子の弟。浩介。僕のこと、覚えてる?」
今度はこちらに向かって手を振ってきた。すぐに刑事に窘められる。

「中学、僕は違うクラスだったから、知らないかもしれないなぁ。二卵性だったし、兄貴はすぐ辞めちゃったし。」
ここで刑事の顔を一瞥し、咎める気がないことを確認すると、再び舌を滑らせる。

「そうそう、兄貴、僕の知らないところで整形したみたい。それも僕をベースにさ。体は成長と共に絞られたってことにしておこうかな。おかげで事件が起こる度に呼ばれる。ある意味、僕も被害者だ。」

同じ顔。同じ話し方。あのときの男と違うとわかっていても、いらいらする。
しかし、その怒りを誰にもぶつけられないまま、彼女は再び警察署を後にした。

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Tumbling Tube - 4

「これですよね?」
最後の1人の元へ、取り返した品を渡す。

萎んだ布袋を抱えながら、人気のない住宅地を歩いていた。
しばらく足を進めていると、反対方向から、見覚えのある女がやって来た。

「あ。」

そういえば、ここはあの女の家の近く。
西島本人としては、一番会いたくない人間だった。
相手もこちらに気づき、大慌てで走り寄って来る。

「ちょっと、待ちなさい!この泥棒!」
金切り声が響く。泥棒であることに間違いはないが、ここで言われる筋合はない。
殺気立った顔で睨んでいる。こういうときこそ冷静に応対しなくては。

「泥棒だなんて人聞きが悪いなぁ。何か用?」
とぼけた振りをして、動揺を誘う。

「液体版砂時計みたいになってるあの筒。まだ持ってるのなら返して。」
至近距離で十分届くにもかかわらず、恨みの篭った声で叫ばれる。

「この筒の名前も知らない癖に。どうせ僕が手にするまで愛着すら持っていなかったんだろ?」

その発言に、彼女は何も言えずにひたすら西島を睨みつける。
目の前の相手を打ち負かす一言を模索しているようだ。

好機。すぐさま筒を袋からつかみ出すと、さらに畳み掛けた。
「これ、ウーズチューブって言うんだって。さっき、液体版砂時計って言ったけど、落下速度は温度に影響されるから、時計になんかつかえるわけない。鑑賞用。それでも大切かい?」

「大切よ。だって、両親からもらったものだもの。」
予想通りの答え。ひねりもなく、そして、つまらない。

「ここに君にとって大切だと言い張るものはある。だから僕は奪った。けれども君が僕から奪ったものはここにない。」
眉をひそめ、首を傾げる。あからさまな態度。答えを期待するのはやはり無謀だったか。

「中学生活?未来?」
「言うと思った。あの後に入った学校は居心地よかったから、何とも思ってない。」
小さく息を吐く。どこまで落胆させるのだろう。

「僕が君を許す権利。」

大きく息を吸い、気の高揚を抑える。

「一度目は事件が起こったとき。二度目は真相がわかったとき。三度目は僕が君の部屋に入ったとき。特に三度目なんて、僕が去ってからまずしたことは、警察への通報だ。自分も過去に人のものを盗った事実は棚に挙げてさ。それを見て確信したよ。君は自分しか見えていない。君に謝ってもらう気は失せた。」

沈黙。言い返せないでいるといった方が正しいか。
眉がつり上がっている。ここまで言えば、もう十分か。

「これ、もう用済みだから返すわ。」

手に持っていた筒を投げる。筒は大きな弧を描き、彼女の手の中に納まった。

「それじゃ、もう会うことはないと思うけど。」
目をあわすことなく、呆然と立ち尽くす彼女の横をすり抜ける。
そのまま曲がり角を折れ、彼女の視界から姿を消した。

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Tumbling Tube - 5

「あれ?兄貴、来てたんだ。」
玄関から声が聞こえる。
迎えるのは、瓜二つの顔を生まれながらに持った弟。

「一仕事終えたからね。警察にはもう呼ばれた?」
「今日ね。それにしてもあの女、中学のときから変わってないね。」

ジャケットを脱ぐのを見計らって、わずかながら厚みのある封筒を差し出す。

「報酬。っていうか、情報料。人数が人数だから、意外と儲かったよ。それにしても、あの女、かなりの人間から物を取り上げてたんだな。おまけに罪悪感もなさそうだったし。」

浩介は封筒を受け取り、中身を確認すると、バッグの奥底に隠した。
それから、リビングの片隅を指差す。

「そうそう、ウーズチューブって言ったっけ?あれ、見つけたよ。売ってるところがなかなかなくて、苦労したけど。」

棚の上では、中身のジェルが筒の下側に落ちきったウーズチューブが置かれていた。
その姿は、まるで佑一に気づかれることをひっそりと待っているかのようだった。

「あ、さんきゅ。お前から名前聞いてすっきりしたのはいいんだけどさ、あれ見てると、自分の半生そっくりなんだよなぁ。」

「どの辺が?」
発言の真意を問いかけながら、徐に筒をひっくり返す。

「これって、あと数秒あれば中身が落ちるってところで、ついつい逆向きにしちゃうだろ。」
流れ落ちる液体に視線を注ぎながら、言葉を続ける。

「それが似てるんだ。おかげでいつも最高と最低のラインを経験することなく今に至ってる。」

「そんなことない。そんなことは・・・。」
言葉に詰まる。
それを隠すように筒に手を伸ばしたが、触れる直前で手を引っ込める。息を飲み込んだまま、音に乗せて吐き出す瞬間を伺っている。
弟の様子などお構いなしに、兄の話は尚も続く。

「中学も難関を突破したところで退学。でも、転校先では濡れ衣を着せられた可哀そうな男として受け入れてくれた。事件のせいで体重が激減したことが功を奏したようだ。それから、高校で始めた体操部では、大会で入賞できる力を付けた。なのに、3年の大会直前で怪我して離脱。一生ものの怪我じゃなかったけど、大学への推薦話は消えた。そして卒業後は表舞台から姿を消す。で、今は、弟の情報収集能力と、自分の身体能力を活かして泥棒家業。」

「盗んでいるんじゃない。僕らは依頼されたものを取り返しているんだ。」
捲くし立てる兄を制止するように、浩介は語調を強めて訂正する。

佑一はしばし考え事をした後、弟が考えもしなかったことを言い出した。
「それも、そろそろ潮時。復讐まがいも終わった。今まではうまく行ってたけど、嫌な予感がする。最悪、二人とも監獄行きだな。」

佑一は筒に手を差し出すと、まだ半分も落ちていない筒を即座に反転させた。
勢いをつけて、机に置く。プラスチックと木がぶつかり、硬く高い音が部屋中に響く。

「だから、近いうちに鞍替えする。何かは決めてないけど、自分で転がすタイミングを決めて、良い方に導く。」
もう一度筒を握り締め、手の上で転がした後、勢いよく打ち付ける。

筒の中身では、半分に割れた液体が奇妙な曲線を描き、下側の筒へと流れ落ちている。

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有りの儘

「もし1回だけ時間を遡れるなら、生まれる前の日に戻りたい。」
いつしか彼女が言っていた。
そのときは冗談としか受け取っていなかった。

「どうして?そんなに昔に戻ってどうするのさ。」
「どうせなら最初からやり直したいじゃない?」

彼女はいつも中途半端になることを嫌がる。
これもその1つとばかり思っていた。


しばらくして、彼女にプロポーズした。
彼女はその場で泣いて喜んでくれた。


これを機に、二人で暮らし始めた。
僕の実家にも彼女を連れて行き、彼女も僕を実家に招待してくれた。

数日後の夜、彼女の母親から電話があり、驚くべき事実が伝えられた。
彼女が不登校になっていたこと。昔付き合っていた男に騙されて人間不信に陥っていたこと。仕事の失敗から鬱になっていたこと。

僕が始めて会ったときの彼女は、そんな経験をしていたことなど微塵も感じられなかった。
彼女が話さなかったのは無理もない。きっと、誰も彼女のことを知らない環境でやり直そうとしていたのだろう。

最後に電話口で、彼女を裏切らないでくれと懇願された。
僕は全てを受け止めた上で、一言だけ力強く返事をした。

「はい。」


電話を切った後、ようやく彼女が言っていたことが理解できた。同時に、軽く受け止めてしまったことを悔やんだ。
あの時、彼女は本気だったんだ。


思い返せば、彼女は全く自分の過去を話すことはなかった。
全てを話したら、三行半を叩きつけて逃げるとでも?もしそんな答えが返ってきたとしたら・・・。
彼女は僕をどの位信用しているのだろう。
考えれば考える程、やるせなくなる。


そこへ、彼女が仕事から帰ってきた。ここ最近、仕事が思うように進まず、残業続きだと言う。
夕飯の準備をしようとキッチンに向かう彼女。
いつも通りの光景なのに、途端に胸が苦しくなる。
気づくと、彼女を両腕で包んでいた。

「どうしたの?」
胸に顔を押し付けられたまま、彼女が尋ねる。

「気分。」
咄嗟に出てきた言葉でごまかす。
けれども、本当は僕なりの決意表明。
彼女を絶対に失望させない。

今日は朝から雪がちらつく。
「晴れてほしかったのに。」
窓の外を見た途端、ぼやく彼女。

二人で決めた小さなチャペル。
ここで、僕らは式を挙げる。
式場に向かう途中、区役所にも寄ってきた。
手続きが終わった頃、雪は止んでいた。


そして、もうすぐ純白の彼女を迎える。


これからは、今日があの一日になりますように。

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浮クチカラ

潜れ。


本能の赴くまま。深く、深く。
左右の肺一杯に吸い込んだ息が続く限り。


目指す場所はただ一つ。
そこは何人も行き着いたことがない。
一度知ってしまったら、また訪れずにはいられない。
危険は百も承知。
害はない。しかし、依存性は高い。

底に辿り着く。
一点の曇りもない無機質なところ。
聖域という言葉がふさわしい。
指先で軽く撫ぜ、そっと唇を近づける。

これでここに自分が存在した証拠を体に刻めた。

全身から力を抜く。
足元から膨れ上がる斥力に身を委ねる。
無重力に似た感覚。
もし人間に浮遊力が備わっていたとしたら、それに近い経験ができたかもしれない。


水面が近づく。
淡い光を反射しているのが、裏側からでもよくわかる。
腕を目一杯に伸ばす。
もう少し。あと少し。

指先が水面を付き抜け、穏やかな波を乱す。
続けて顔を突き出し、腹の底から酸素を取り込む。


仰向けになり、胸を空気に晒す。
小波に背中を沿わせる。
心地よい揺れに任せて漂う。

昨日の不満や明日の心配で侵食された脳を空にする。
悩むことを止めて、ゆったりとした時の流れを体感する。


もうすぐ空が橙に染まる。
その前に、もう一度沈みにいこう。

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R / I / N  - 1

「どうして泣いてるの?こんなにいい天気なのにさ。」
突然声をかけられ、涙を拭うことも忘れて反射的に顔を上げる。
自然と目が合う。ベンチに座っている私に対し、しゃがみ込んだ姿勢から上目遣いにこちらを見ている。
童顔の、今時な姿の青年。
けれども、革製の首輪をしているのがとても気になる。おしゃれのつもりなのだろうか。

「あ、もしかしてふられた?」
図星。今さっき、別れを告げられたばかり。

「浮気が本気になったから別れてくれ」
だって。
そんなの、あっさり承諾できるわけがない。
久しぶりに雲ひとつない秋空が広がった休日。朝からメールで呼び出されて、1ヶ月ぶりに逢えるのが嬉しくて、買ったばかりのワンピースを着ていったのに。一言も返せないうちに、彼は私の前を去っていってしまった。
そのまま背後にあったベンチに座り込み、泣き崩れたまま今に至る。

せっかく記憶の底に埋めて栓をしていたのに、彼の一言で全てが飛び出す。
頭の中で先ほどの出来事が完全再現される。
目頭に涙が溜まる。次々と噴き出すそれを制御することなんて、とてもできない。

「泣き顔もかわいい。」
堰を切って流れる涙。化粧が崩れ、あられもない顔を曝け出す私。
それを見て、彼は無邪気な笑顔で応える。

「ねぇ、こんなところで泣いてるってことは、この後何もないんでしょ?それなら俺と遊んでよ。」
手首をつかまれる。強い力。手を引き戻すこともできないまま、腰が浮く。
もつれる足をかまうことなく、彼は堂々と歩道の真ん中を歩き出した。

「ね、ねぇ。」
「俺のこと、リンって呼んで。君は?」
「私は・・・、ケイ。」
完全に彼のペース。相変わらず力を緩めようとしない。
目に映る景色と記憶が結びつかない。
どこに連れて行かれるのだろう。何が起こるのだろう。
怖い。早く解放されたい。
不安で胸が一杯になる。

「逃げないから、いい加減に手、離して。痛いんだけど。」
「もうちょっと、我慢してくれる。」

無言で歩き続けたまま、大通りを縦断する。一駅分は進んだだろうか。
彼の歩調にあわせるのが辛い。足枷を填められたよう。まだ着かないのだろうか。
一体どこに向かっているのか。何かされるのではないか。

繋いだままの手を、早く振りほどきたくて仕方がなかった。

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R / I / N  - 2

「到着ー。」
そこは大きなゲームセンター。壁やマシンの塗装が剥げていない。できたばかりなのだろうか。

「ほら、こういうときってスッキリしたいじゃん。」
手を引っ張る。込み合う店内の中を、人ごみを押しのけて進んでいく。
人にぶつからないように気をつけてはいるが、たまに肩が触れる。私だけの責任じゃないのに、ひたすら謝る。
どこまで奥に進むのだろう。

「この辺に置いてあるの、この店しかなくてさ。」
目の前で見せられたのは、一台のパンチングマシン。
呆然と立ち尽くす私の右手にグローブが装着される。

「何も考えずに打ってみて。」
そっと耳打ちし、100円玉を入れる。

躊躇い、わずかに後ずさる。
絶対に敵わない相手を前に絶望して、立ち尽くすことしかできないボクサーになった気分。畏怖とは違う何かが、体を動かすことを拒む。

「ほら、構えて。それから、真っ直ぐに腕を伸ばすだけでいいから。」
その声につられて、テレビで見たボクシングのスタイルを真似る。
頭から全てを消し去り、右手に勢いをつけて真っ直ぐに振る。
しかし、ウレタンの中心をはずれ、思うように記録は伸びずに終わった。

「あぁ、残念。」
淡々とした動作で100円玉を追加する。

「それじゃ、もう1回。」
耳元で声が聞こえる。それにあわせて、腕を振る。スコアが少し上がる。

「やった。」
思わず声が漏れる。

「おめでとう。記念にもう1回。」
100円玉の落下音が引き金となって、拳を突き出していた。
彼の手元から小銭がなくなるまで、何度も、何度も。

ようやく彼の手から100円玉が尽きたとき、私の右手は思い通りに動かなくなっていた。

「それじゃ、次。」
店を出て、次は駅前に連れて行かれる。そこではショッピング。話題の映画を鑑賞。そして、ディナー。


「じゃ、帰ろうか。」
その言葉が出たのは、日付が変わるまで後2時間を切った時だった。

「家まで送っていくよ。」
いつもなら断る算段なのに、このときも彼に強く腕を握られていた。
断ることもできず、結局家の前まで来てしまった。

アパートの、私の家の前。

「私の家、ここだから。」
「あ、そう。」
パッと手を離す。潔い所作が怖い。

すると、
「俺、帰るから。待っていてくれる女もいるし。」
首輪を指差し、無邪気に笑う。

「それじゃあね。」
ヒラヒラと指を動かす素振りを見せると、名残惜しむ素振りをすることもなく去っていってしまった。
彼の姿が見えなくなったのを確認し、家の中に入る。

一体、彼は何者だったのだろう。
酷く落ち込む出来事があったはずなのに、その夜は1つの大きな疑問が頭の中を駆け巡った。

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R / I / N  - 3

あの日から数週間。
リンことを考える暇もなくなっていた。


夜9時。テレビに電源を入れる。毎週、惰性で見ているドラマ。
ありがちな展開の恋愛ドラマ。けれども、不思議と欠かさずチャンネルを合わせている。


開始早々、玄関のチャイムを連続で鳴らす音が聞こえてきた。
それから、ドアを何度も叩く音。
酔っ払いが隣の家と間違えているのだろうか。

1分、2分。音が止む気配がない。
テレビの音量を落とし、身を潜める。

突然、音が止んだ。
やっと間違いに気づいたのか。体内に溜まった息を、一気に吐き出す。
少しずつ、テレビの音を復活させ、部屋の中に日常を取り戻す。


画面がCMに切り替わり、恐る恐る、玄関に近づく。
忍び足で、音を立てずにゆっくりと。

扉に手を当て、左目を瞑り、覗き穴に右目を寄せる。
左から右へと、目を動かす。
何も映らない。
よかった。
安心できたところで、踵を返す。

その瞬間、床が軋んだ。

「やっぱりいるんだろ?」
聞き覚えのある声。
疑いの眼で、もう一度覗き穴から外の様子を探る。
やはり誰もいない。

ドアノブのつまみを直角に傾ける。
チェーンがかかっているから、きっと、大丈夫。

ドアノブに手を掛けた瞬間、ひとりでにドアが開いた。

思わず息を呑む。

「ほら、いた。」

10cm程度の隙間から顔を覗かせたのは、リンだった。
シャツや手、顔に赤黒い染みを滲ませ、微笑んでいる。
瞬時に目を瞑り、首を傾ける。声にならない小さな叫びが、喉を通過する。
左足が一歩だけ下がる。右足は硬直して動かない。

「ねぇ、ここに入れて。」
隙間に腕を通し、左手に持っていたものを広げる。
身に着けていたはずの首輪。金具の部分がつながったまま、別の箇所で途切れている。
徐に、そして片方ずつ目を開き、リンの首に視線を合わせる。
薄暗い電灯に照らされた、白く、痣の残る首に絶句する。

「逃げてきたんだ。彼女と喧嘩しちゃってさ。」
恐怖で足が竦む。ドアを閉めたいのに、手に力が入らない。

「首輪外すときにてこずっちゃってさ。自分で留めた癖に、外すときはナイフ使うなんて思ってもみなかったよ。」
手先には痛々しい傷跡。それを隠すことなく、口元を綻ばせたまま、こちらを見つめている。
ここで彼を通したら、間違いなく自分の身が危ない。
鍵なんて、開けなければよかった。
恐怖と後悔で頭が錯乱する。

「チェーン、外してよ。傷の手当だけでもさせて。」
甘ったるい声で囁く。内に秘めた狂気を隠して、弱い自分を演じているかのよう。
化けの皮が剥がれるのを、押さえているようにも見える。
この前は彼の言うがままになっていたが、今は違う。
ここは自分の家。何としてでもリンに飲まれてはだめだ。

「ダメ。前みたいに帰って。」
「無理だよ。俺、今ノラだし。」

膠着状態。強引にドアを閉めようとしたところで、彼には適わない。
もしそれができるのなら、あの時手を振り払って逃げていた。
力で適わないなら。

「・・・警察呼ぶから。」
声を振り絞る。あまり大事にはしたくないが、いざとなったら助けを求めるしかない。

「呼べば。どうせ、男女の縺れとして相手にされないからさ。」
いつの間にか、隙間に足を踏み入れている。これではドアを閉めることができない。
それにしても、一向に動じる気配がない。もしかしたら、過去に同じことをしているのかもしれない。

尚更、彼に負けるわけにはいかない。

「名前以外何も知らない相手でも?」
感情に任せて吐き出す。

「でも、僕はキミの家を知ってる。」
「私は"リン"という名前以外何も知らない。」
頭で考えるよりも早く、息に乗せてぶつける。少しでも止まったら、彼の思惑に乗せられる。そうなることが怖い。

「通してくれたら何もかもを教えてあげるよ。」
この状況を楽しんでいる。少なくとも、余裕と自信に満ちている。


この局面を打破するための、最後の手段。一瞬だけ、頭の中を空にする。
しっかりと彼の両眼を見やる。

「私の名前を知らなくても、同じことができる?」
「え?」
彼の言葉が詰まる。好機。一気に畳み掛ける。

「ケイはあの日別れた男の名前。何も知らない男に本名教える程、私も馬鹿じゃない。」
「あの時、キミは楽しんでいたじゃないか。」
「それは思い込みでしょ?あの日、強引に連れ回されて、ちょっとでもつまらない素振りをしたら何が起こるかわからないから、作り笑いしてあげただけ。本当は嫌で仕方なかったんだから。」
自分でも嘘とも本当とも区別が付かない。隣人に聞こえてもかまわない。ただ、彼を消し去りたかった。

「・・・そう。」

力を失った彼の手足は、ドアの隙間をするりと抜けていった。
瞬時にドアを閉じ、鍵を閉め、奥の部屋へと走った。

部屋に戻ると、付けっ放しにしていたテレビが、真っ先に視界に飛び込んできた。ドラマは終盤に差し掛かっている。画面の中の温かな展開に嫌気が差し、スイッチを切ると、ベッドの中に潜り込んだ。
今度は音がしても、絶対に出ない。だから、もう来ないで。

時折外から響く小さな音に怯えながら、眠れない夜を過ごした。
 
 
 
それから1ヶ月後、私は別のアパートに引っ越した。

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R / I / N  - 4

季節は巡り、再び訪れた乾いた空気と爽やかな青空の下で、私はベンチに腰掛けていた。

「また、ふられた?」
聞き覚えのある声に、顔をあげる。

「リン。」
忘れていたはずの情景が頭の中を駆け巡り、顔が強張る。

「安心して。強引なことはしないから。」
そっと語りかける。あのときのような邪気がないのはわかっているけれど、体、特に両腕は拒否反応を示す。
両手首を堅く体に引き寄せた。

「今は誰にも繋がれてない。」
首輪がはずれ、露になった白い首をここぞとばかりに見せ付ける。

「で、今さっき偶然に君を見つけたと思ったんだけれど。」
視線を少し落とす。その先に何が映っているのか、すぐにわかった。

「今度は君が誰かと繋がっているんだね。」
右手の薬指。
私は赤く染まった頬を髪で隠すように、小さく頷いた。


「ごめん、待たせた。」
遠くから耳に馴染んだ男の声が聞こえる。彼だ。脇目も振らず、彼に飛び込む。


「今、誰かと喋っていたみたいだけれど、誰?」
「人違い。」
「そう。」

振り向くと、リンの姿はなくなっていた。
脳裏に、彼の首輪がブツリと千切れる光景が浮かぶ。
実際にその瞬間を見たわけではないのに。

同時に、リンはもう私に逢いに来ない。根拠のない予感が体内を渦巻く。
わずかながら増殖する複雑な想いを押し隠し、肩を寄せ合う彼に、歩幅を合わせた。

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水底の雫


アレがほしい。
コレもほしい。

1つ1つが手に入るたび、内面の水槽には水が溜まっていく。
望みが大きければ大きいほど、注がれる量も比例して多くなる。

『我慢』なんて、私にとっては辞書に埋もれた言葉。
ちょっと口に出すだけで、誰かが見つけてきてくれる。
皆私の言いなり。
届かないものなんてない。

水嵩が9分目を超えたら、一回り大きな水槽へと入れ替える。
全部捨てて、同じ水槽にまた溜めるなんて馬鹿げている。
どうせなら、もっと大きな水槽を一杯にしたい。


誰でもいい。私を満たして。
溺れる位。息ができない位。水槽から水が溢れる位。
もっと、もっと。


でも、いつも何かが足りない。
水槽の水は増え続けているというのに。

そんなときに囁かれたあの一言。

「君にはもう飽きた。」

未だに耳元に残っているあの声。
悦に入っていた私の気分を一気に粉砕してくれた。
他にもいろいろ言われたが、怒りと悔しさで全く覚えていない。

誰かに縋ることのどこが悪い。
私を満たせない男と縁を切ることのどこがいけない。
自力じゃなくても、最終的に私の手に収まることのどこが問題?


その時、温かな雫が頬を伝った。
その後も目頭から同じ経路を通って、次々と零れ落ちる。


この水源はあの水槽?
とうとう決壊したんだね。
これ以上溜めても溢れさせることも満たすこともできないのなら、全て流してしまおう。

人目を気にすることなく、精も根も尽きるまで泣きじゃくった。
声が枯れた後も喚き続けた。


最後の一滴が地面に落ちたとき、体は今にも宙に浮きそうな位、軽くなっていた。


あの日から、水槽は乾ききったまま、底が割れたままになっている。


何もすることがないときは、部屋の隅で蹲ったまま、何も考えずに過ごす。
あの瞬間から、あらゆるものを渇望する気力が生まれなくなった。


あれから、数ヶ月。
色々とわかったことがある。
眼に映るどんなものが手に入っても、一時の満足で終わっていたのは、一度たりとも自分一人の力で得ようとしなかったから。
もっと大きな水槽に移し替えたくなったのは、簡単に水を溜められる術を知ったから。
そして何よりも、私が誰かを満たせないのと同じように、私が溺れるまで完璧に満たしてくれる人なんて、この世の中にいるわけがないのだ。


水槽を取り替えた。
最初に意識したときよりもずっと小さな、金魚が数匹泳げる程度の大きさ。

水が入らなくても、水がなくなってしまってもいい。
今度は自分の力で溜めていく。

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strange class

あれは、秋晴れの爽やかな午後のことだった。

昼休み終了5分前を告げるチャイムが鳴り響く。
大急ぎで階段を駆け上る男子生徒が1人。
彼の名前は北見。この高校の3年生。
教室は校舎の最上階。次のチャイムまでに駆け込まないければ、遅刻扱いにされてしまう。
この時期は些細な行動が進学に影響する。教師は目を光らせ、生徒は神経を尖らせる。

最後の一段に到達し、そのままの勢いを保ったまま、廊下を駆け抜ける。
廊下にはわずかながら人の往来はあるが、見たところ教師はいない。
全ての扉が閉じられ、教室の中を窺い知ることはできないが、騒ぎ声が聞こえる。おそらく先生は来ていない。
まだ間に合う。

彼の席は一番前の真ん中。
教室の前扉を勢いよく開け、両足を板張りの床へと踏み出した。
しかし、2歩進んだところで動きを止める。
扉の先は信じがたい光景が広がっていた。

教室の窓際に逃げまとい、怯える女生徒と、それを追い詰める二人の男。
白目を剥き、蒼白した顔をしているが、同じクラスの山川と藤田だ。
男は手当たり次第に物を投げている。
あまりの非日常的な展開に、北見は扉口で突っ立ったまま、事の成り行きを見ていた。
襲うには敵の数が多すぎると悟ったのか、しばらくすると、彼らは諦めて教室の後ろ扉から出て行った。

すかさず、後ろ扉付近にいた数人が扉をピシャリと閉める。
その音を聞いて北見は我に返り、思わず背中にある扉を閉める。

簡易的な閉所空間になったことで、中にいた者が落ち着きを取り戻す。
興奮が収まったところで、北見が口を開く。
「一体、何があった?」

全員が彼を味方と悟ったところで、銘々が事の顛末を口にし始めた。
話をまとめると、原因はわからないが、昼休みに教室にいなかった数人が教室に帰ってくるなり、おかしくなりだしたらしい。
その後、すぐさま廊下の徘徊を始めた者もいれば、先ほどの彼らみたいに襲ってきた者もいる。
壁伝いに聞こえてくる悲鳴から、どうやら、他のクラスでも同じことが起こっているようだ。
北見が教室に入る前、廊下に不審な人影はなかった。今は他の階や校舎に行っているということか。


すると、青ざめた顔をした代田がなだれ込むようにして帰ってきた。
「ソンビウィルスに感染した。」
「ゾンビ?」
「あぁ、1年の女共がそう騒いでんだよ。ゾンビみたいな形相だからって。」
震える体を押さえ込むようにして、自分の席に座る。
感染した代田を目の前にして、女子生徒を中心に教室は再びパニックになった。

「打開策はないのかよ。」
後ろから誰かが叫ぶ。

「そういえば、どこかのクラス通りがかったとき、お茶かけたら正気を取り戻したって言ってた。」
弱弱しくなった声を振り絞り、代田が叫ぶ。
「それだ!」
教室中の声が揃う。

誰彼構わず荷物を開けると、飲みかけたペットボトル入りのお茶が出てきた。
中には進んで提供する者もいた。

片っ端から蓋をあけ、頭から浴びせる。代田の体はいろいろな種類のお茶にまみれた。
そして念のため、北見は最後の1つを代田に飲ませようと手渡す。
その時、代田と手が重なった。

「今、思ったんだけどさ、おまえどうして感染したってわかった?」
「奴らと手がぶつかったんだ。その時は何ともなかったけれど、2~3分位で気持ち悪くなってきて。そしたら、体の中に凶暴な人格が入ってきた感覚に襲われて・・・。」
「皮膚感染。」
傍にいた中嶋が口を挟む。

「畜生!」
慌てて、教室の向かいにある廊下の手洗い場へと駆け出す。お茶はすべて使い果たしてしまった。お茶をかけたときに手が濡れていたとはいえ、同じ症状が現れるのは時間の問題だろう。
幸い、廊下には誰もいない。
周囲に注意しながら、ハンドソープに手を伸ばす。
すると、遠くに徘徊を続けていた感染者が見えた。
襲われたときのことをシュミレーションする。皮膚感染とわかった以上、素手での攻撃は危険だ。何かあったときは蹴りで応戦か。教室に篭城するか。
迷っている間にも、北見と感染者の距離が近くなる。

だが、彼らは何かを呟いているようだった。
反対側に気を配りつつ、耳を済ませる。

「ラベンダーの匂い・・・。近づけない・・・。」

思わずハンドソープを見る。ラベンダーの文字。
急いで泡を落とし、両手を鼻に寄せて匂いが染み付いたことを確認すると、ハンドソープを片手に教室へと戻った。

「おい、コイツを手にかけろ。奴ら、ラベンダーが弱点だ。」

クラスの一人に投げる。
すると、ほぼ同じタイミングでゾンビウィルスに感染した、知らない顔の男子生徒が北見と逆側の扉から2人も入ってきた。
廊下で出くわしたのとは違う。おそらく別ルートからやってきたのだろう。

弱点がわかったこともあり、北見は率先して両手を前に突き出し向かっていく。
感染者達は顔を歪ませて後ずさり。
ハンドソープのコーティングを終えた同級生も、その効果を見て少しずつ加わってきた。
しかし、感染者達も助太刀要員として、次々と逆の扉から入ってくる。
万事休すか。


突然、北見の脳裏に昔流行ったノリの良い曲が頭を流れる。
反射的にそのまま口にする。
カラオケ好きな程度で、正直、熱唱する以外大してうまくはない。
中には突然気が狂ったのかと唖然とした視線を送る者もいた。しかし、一人、二人と同調してくれ、遂には大合唱となった。
次第に笑みがこぼれる。

全員にハンドソープが行き渡り、本格的に交戦が始まった。
物を投げる者もいれば、机の上から蹴りを食らわせる者もいる。
北見も例に漏れることなく、必死で応戦した。
この間、眼に映る光景がすべてスローモーション。脳内に流れるバックミュージックはさっきまで歌っていた曲。嘗てCDで聴いていたときと同じ音源が駆け巡る。


もう少しで追い払えると思ったその瞬間、窓から強烈な閃光が走った。


まぶしい!!


北見が眼を覚ますと、全員が床の上に倒れていた。
今まで気を失っていたようだ。

半身だけ起こし、しばらく様子を見ていると、周囲も序々に起き上がってきた。
遅れて、感染者達も目を覚ます。
身構えていると、どうやら正気を取り戻したらしく、
「ここは?」
「一体何が?」
と、口にし始めた。どうやらさっきまでの状態を全く覚えていないらしい。

その後、午後の授業はすべて休止となり、そのまま集団検診となった。
しかし、どの生徒にも乱闘で軽症を負った以外は異常は見つからず、そのまま大事を取って1週間休校となった。
最初に感染したといわれる生徒も、体育館で遊んでいたときに突然おかしくなったらしく、直接的な原因が見つかることはなかった。
休校になっている間、当局やマスコミがごった返していたようだが、何一つ掴めないまま、事件は闇に葬られた。
これは後日談となるが、お茶がワクチン代わりになったのは、別のクラスでは偶然にもラベンダー入りのお茶を持っている生徒がいたためらしい。代田自身はというと、ラベンダー成分の入ったお茶を飲んでもかけてもいない。強いて言うなら、正気を保っている間に塗りつけた両手のハンドソープだろう。後は、彼の精神力の強さと言ったところか。


あれから数ヶ月。
誰も、あの日のことを話題にしなくなった。
何時しか平穏な学校生活に戻っていた。
変わったことといえば、北見が愛用するポータブルプレイヤーに、あの時歌った曲が加わったこと位か。

今日もあと数分で昼休み終了5分前のチャイムが鳴る。
北見はあの曲を繰り返し口ずさみながら、階段を上っていた。

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プラットホーム - 1

失敗した。
知人との、ちょっとした食事のつもりだったのに。時間を忘れて閉店まで飲んでしまった。
終電、間に合うかなぁ。

改札を抜け、ホームに続く階段を走り抜ける。
その間、男は電車が待っていてくれることを祈った。
最後の踊り場を回ったところで、発車のベルが聞こえる。つられて、足の動きが早くなる。
「あ、ちょ、ちょっと待っ・・。」

ホームに片足が着くのと同時に、一斉に扉が閉まる。
今、一番望んでいない光景。無情なことに、電車は次の駅へと走り出した。

いくら待ってもこの後の電車はない。それなら最後に改札を通った人まで待っていてくれてもいいのに。
特にここは地下鉄。ホームに着くまでにかなりの距離があるのだから、それ位の配慮を考えてほしいものだ。

遠くに消え行く電車を見送る。
同じホームを共有する反対側の路線は、既に今日のお勤めを終えている。
乗り遅れた不幸な人間は、きっと自分だけだろう。

完全に電車が見えなくなったところで、ホームを見渡す。
視界に飛び込んできたのは、ベンチの上で蹲る少年の姿。
見た目から判断して、15歳位か。帽子を深々とかぶり、黒いコートで全身を覆っている。
帽子とコートの間から覗く目は、逸れることなく反対側のホームを向いていた。

ちょうど背向かいにあたるベンチに腰を下ろす。
その間、少年は一瞥もくれることはなかった。


いつも以上に飲んだ酒のせいか、彼への興味が喉を突いて出てきそうになる。
ついに、背中越しに声をかけた。

「君、名前は?」
「・・・」

聞こえていなかったのか。
それとも、問いかけている相手が自分だと思っていないのか。

別の質問を投げる。

「誰を待っているんだい?」
「朝。」

まだ幼さの残る声。
答えに違和感はあるが、きっと自分と同じ境遇なのだろう。

この駅から家までは1時間以上かかる。駅を出たところで、他に帰る術も、どこかに泊まれるだけの金もない。
幸い、明日は特にこれといった予定もない。

いっそのこと、ホームで夜を明かすか。

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プラットホーム - 2

硬く居心地の悪いベンチに座ったまま、時が過ぎるのを待つ。
いろいろ見渡しても、代わり映えすることのない景色。様々な角度から新たな発見をしようと試みたが、5分と持たず飽きてしまった。

立ち上がり、ホームの中間に立ち並ぶ看板を見て歩く。
大半は駅のお知らせやポスターばかり。しかし、イラストや写真が目立って、文字がほとんどない。これでは暇つぶしになんてならない。
自分が待っているホーム側の看板だけ見終わったところで、元のところまで戻ることにした。

少し離れただけなのにすっかり冷め切ってしまったベンチに座る。
すると、わずかながら、カタカタと震える音が聞こえてきた。
気配を悟られないように背後を見ると、体が小刻みに震えていた。
それもそうだ。
人の気配がなくなり、空気が冷える。厚着をしているつもりでも、少し肌寒い。
きっと、コートの下は軽装なのだろう。

目に付いたのは、時間に関係なく煌々と存在を示す自販機。その3段目には温かい飲み物が並ぶ。
財布に残ったなけなしの身銭で、それに等しいだけの温もりを買う。
それを2つ。

「寒いだろ?これしかないけれど、暖を取れよ。」
目の前に立ち、買ったばかりのコーヒーを手渡す。
少しだけ顔を上げたようだが、帽子のつばに遮られ、顔を確認することはできなかった。
2つ目を買ったとき、拒まれることも考えた。
その時は自分で飲んでしまえばいい。好かれようなんて心もなかったから、気楽に構えていた。

予想に反して、すっと袖口から指先だけを突き出す。
それから掠れた声で、
「ありがとう。」

意外と素直。
でも、コーヒーを受け取った爪が汚れていたのが気になる。実は何かに怯えていたのかもしれない。
とはいえ、理由を聞いたところで、自分には何もできないだろう。そこまで干渉する義理もない。
本当に聞いてほしいなら、いずれ彼から口を開くだろうし。

その後、何の対話もなく、それぞれがコーヒーの熱を取り込む音だけが響く。
最後の一滴が喉を通りかけたとき、ベンチが浮いた。
初めて彼が動いた。缶を捨てに行ったようだ。後姿に目を向ける。座っているときは気づかなかったが、コートの身丈が彼の体に全くあっていない。裾を引きずるように歩いていく姿が、彼が背負っている事情を代弁しているようだった。
ゴミ箱に缶が落ちたのと同時に、視線を線路に向ける。目が合うことに恐怖を覚えたからだ。

彼が再び腰をかけたのを見計らって、こちらも缶を捨てに行く。
ゴミ箱に缶をそっと落とし、足元に視線を落としながら、ベンチの指定席に戻る。

再び、長く退屈な時間。ホームをもう半周する気はない。かといって、荷物の中に気を紛らわすものなんて一つもない。
そうこうしているうちに、眠気が襲ってきた。
今、取られて困る程、財布に中身はない。他にも、売ったところで大金になるものなど持ってはいない。
そのまま、本能に体を任せた。

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プラットホーム - 3

目が覚めた瞬間、時計に目をやる。
電車が来るまでもう少し。日の当たらない場所なだけに、体に朝が来たという感覚がない。
寝ぼけ眼のままふいに首を回すと、相変わらず彼は同じ体勢を保っていた。


程なくして、反対側のホームにこの日一番早い電車がやってきた。

「じゃあ、行くね。」

かすかに響く声。
振り向くと、停止線の前に立ち、目の前に扉がやってくるのを待つ姿が見えた。
扉が開く。彼は俯き加減に電車に乗り込むと、一番近くの席に座った。
ここでも背中越し。
結局、彼の顔はおろか、名前すら知ることはなかった。

発車のベルがなり、ゆっくりと電車が走り出す。
この先はたしか、何もない田舎町。
彼は一体どこに向かうのだろう。


男は少年を呼び止めることもせず、無言で別れを告げた。

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Unlucky night

ただいま逃走中。
理由はよくわからない。

とにかく俺は走ってる。
それだけは確か。

中学、高校とバスケをやっていたから、走ることにはそれなりに自信がある。
大学入学と同時にやめてしまったけれど、まだブランクにはなってない(と思う)。


「待てぇーーーー!!」
一体何の恨みがあって、追いかけてくるんだ?
だいたい、今さっきあったばかりの奴にこんな目にあわされるなんて。

交差点に差し掛かり、迷うことなく左に曲がる。
そこは細い路地へとつながる十字路が連なる道だった。
あいつに見られる前にと、2つ目の道を左に曲がった。
その後、もう一度曲がったところで、息を殺して様子見。


何も知らない男は俺が路地に入ったことなど疑いもせず、まっすぐに突き進んで行った。
とりあえずは撒けた。


大きく深呼吸をして、ついさっきのことを思い出す。
本当なら今頃はサークルの飲み会のはずだった。

開始時間に少し遅れた俺。
主賓でもない俺のために取っておいてくれた席に座り、一杯目のビールを注文しかけたとき、
「おい、謝れよ。」

そう、あの男が言いがかりをつけてきた。
これが初対面。多分。いや、絶対。

既に酒を飲んでいるらしく、顔も赤ければ息にも独特の臭いがついている。

俺を含め、周りは瞬時に何かヤバイ展開になることを悟った。
その目は明らかに俺の顔を見てる。

「おい、今日の金はいいからとにかく逃げろ。」
その声で、両足が自分でも信じられない位のスタートダッシュを始めた。
その様子を見て、名前も知らない男まで追ってきた。
ぱっと見、20代後半から30代前半。俺なんかより体つきもしっかりしている。しかし、サラリーマンには見えない。どことなく動きやすそうな格好。
予想はしていた。けれども、後ろを振り返るのは怖い。

席を立とうとした何も関係のない客は、突然の展開に呆気にとられている。
他の客でにぎわう席と席の間をすり抜け、大急ぎで外へ。
たまにぶつかり、
「すみません。急いでいるもので。」
と、その人に届くように大声だけを残す。

ぶつかった人も最初は不快感をあらわにするが、すぐに事情を悟り、ときには
「兄ちゃん、頑張れよ。」
とまで言われる始末。

これが映画なら、その辺の椅子をなぎ倒して追っ手を阻むのだろう。
そんな都合のいい展開、そう簡単にその辺に転がっているわけがない。
きっと、『自力で逃げ切れ』との思し召しなのだろう。

唯一予想外だったのが、ドタドタとした足取りの割りに速いこと。
俊足とまではいかないが、油断はできない。

店を出た直後からギアをトップに持っていく。
幸い、昔ながらのガラス戸だったため、店内からの勢いを殺すことなく加速できた。

これは仕方ないのだが、扉は開けたまま、店の前の歩道を駆け抜けた。
あの男のことだ。ピシャリと閉めたところに突っ込んででも追いかけてくるだろう。
今の現状はもちろんのこと、ホラー映画のような展開なんて、もっと求めていない。

背中で感じ取れる気配や、歩行者の様子を見る限り、スポーツ経験者の俺とほぼ同じ速さのようだ。
本当に酒が入っているのかと疑いたくなる。
相変わらず、
「待てーーーー!!」
「そいつを捕まえろ!」
と、夜にもかかわらず周囲に喚き散らす辺り、素面でないことは確かだ。
声が上がる度に、俺に視線が集まる。バスケでいいプレイをしたときは最高の気分になれるのに、今は注がれる幾つもの目が気持ち悪くて仕方がない。

しかし、すれ違う人々も、この追いかけっこにかかわりたくないのか、一様にシカトを決め込んでいる。
俺だって、理由も知らないただの通行人に邪魔されたくもない。まして、助けを求める気なんてさらさらない。
はっきり言って、恥ずかしい。人気のないところに雲隠れしたい。


そして、今。
喉からは鉄の味、額から汗が流れ落ちる。
飲まず食わずで準備運動もなく久しぶりに動いたせいか、早くもスタミナ切れ。

こういうのを、『悪い奴に追われてる』というのだろうか。
悪い奴・・・?追われている理由もわかっていないのに?
あんな礼儀知らずな男の存在、記憶の片隅にも残っていないが、いやな思いはした人間よりされた人間の心に深く残るという。

もしその通りだとしたら、あの男に謝らなければならない。
しかし、一方的に謝るのは嫌だし、それ以前にあの男の必死の形相を思い出すだけでも身震いがする。


そうこうしているうちに、またあの声が聞こえてきた。
「どこにいったぁーーーー!!」
だから、近所迷惑だって。
これを治めるには、自ら目の前に出て行く他はない。それは逃げ場がなくなったときであって、逃げ切れる可能性あるうちは、とにかく疾走あるのみ。


ここに留まっているところで、捕まるのは時間の問題。
2、3歩軽くステップを踏むと、一気に駆け出した。

声が近づいてくる。
振り返ると、そこにあの男がいた。
悪夢再び。
少し休んだおかげで、少しはスピードが上がるかと思いきや、逆に落ちている。中途半端に休んだのが原因か。
しかし、相手も体力の消費が激しいらしく、先程のような快走ではなくなっている。

やがて、人気のない公園に突入した。
ここなら何を叫ばれても心配ないだろう。
見晴らしがよく、隠れる場所がないのが欠点だが。


男も後を続いてやってきた。

突然、思ってもみなかった言葉が飛んできた。
「俺が悪かった。」

急な展開に頭がついていけず、動きを止めて振り返ると、男が土下座していた。その場に近づくことはせず、動向を探る。
「あんたが知り合いの嫌な奴に似てただけなんだ。八つ当たりして悪かった。」
「は、はぁ。」
ただの人違いで俺は貴重な飲みの機会を失ったのか。
怒りを通り越して、開いた口がふさがらない。

「それだけのことで俺は・・・。」
そのまま地面に倒れ込む。コイツのせいで楽しみを失ったかと思うと、通り過ぎた怒りがまた戻ってきた。
無言のまま、相変わらず土下座を続ける男を睨む。座ったおかげでほぼ同じ視線。

「バイト先であんたによく似た年下の店長の愚痴を言っていたら、ちょうどあんたが現れたんだ。いや、本当に悪かった。」
走っている時と同じ声量が公園中に響く。周囲に人がいないのはわかっていても、改めてされると、ものすごく恥ずかしい。
何とも言いようのない恨みを込めて、再度眉間にしわを寄せる。
膠着した状態が続く。
男は俺と目を合わさないよう、必死に何かを画策しているようだった。

すると、
「そ、それじゃあな。謝ったからな。」
さっきまでのあれは演技だったのだろうか。男はその一言だけを残し、脱兎のごとく公園を飛び出していった。

名も住所も知らぬ男。これで去られては追いようもない。しかし、足にはガタが来ており、走るどころか歩く気力もない。
そのまま仰向けに倒れこみ、数分間休んでから、携帯電話で幹事の後輩に連絡を取る。

「もしもし、俺。こっちは終わったんだけど、合流していい?」
「先輩ですか?それがですねぇ、ラストオーダー終わっちゃったんですよ。この後二次会する予定ですけど、どうします?」
え?慌てて時計を見ると、俺が店に着いてから1時間が過ぎようとしていた。

「あ、それと・・・。」
俺が逃走劇を始めた直後、店主が飲みの席に駆け寄り、男のことを教えてくれたそうだ。
あの男は店の常連で、普段は虫も殺せぬ大人しさにもかかわらず、一度飲み出すと、客に絡む癖を持っているとのこと。
俺みたいに、何にも関係ない客に因縁つけることも珍しくなく、その度に男の連れが迷惑料と称して、被害に合った客の分も少し払っていくらしい。
今回のケースも、少し出してくれたと聞いた。

「わかった。でも、今日は止めとく。思いっきり走りすぎてもう無理。」
「了解です。大丈夫ですか?ゆっくり休んでくださいね。」
本気で心配しているのか、口先だけなのかわからないまま、電話は途切れた。
時々聞こえる会場のざわめき。遠い世界の出来事のようで、とてもうらやましく感じる。
これさえなければ自分もあっち側にずっといられたのに。

もう一度、今夜起こったことを整理する。
どう考えても、俺が追われる理由はない。
俺は全く悪くない。
なのに、全速力で走らされた挙句、公園で一人。

「馬鹿野郎!!」

雲がところどころに残る夜空に、腹一杯に吸った息に乗せて、一気に吐く。
頭の中をこの言葉が蠢いていて、外に出したくて仕方がなかった。


まだまだ収まらない。
「この馬鹿野郎!!」

これであの男にも届いただろうか。
少しは反省してくれただろうか。
これに懲りて、少しは酒を控えてくれるだろうか。

夜風が火照った体を覚ます。
頭を完全に冷やしたところで、俺は帰路へと着いた。

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僕と付き合って。
初めて見たときから君を好きになった。

僕と一緒に暮らそう。
いつも君と笑っていたい。


朝は僕よりも先に起きないで。
寝顔の君を見ないと落ち着かないんだ。

夜は僕よりも先にベッドに入ってて。
一日の最後まで君が隣にいないと安心できないんだ。


一人で出かけるときは、誰と何するか、正直に伝えて。
僕のいないところで君が他の男と会わないか、不安で仕方ないんだ。

何時までに帰る予定か、必ず教えて。
夜、いつ戻るかわからない君を、一人待つのは嫌なんだ。

泊まるときは、必ず僕に写真をメールで送って。
浮気は絶対に許さないから。


僕の前で自分から話そうとしないで。
君の話は退屈。僕の話の方がずっと面白いよ。

君の物は全て僕があげる。
君なんかよりも僕の方がずっと趣味が良いんだから。

食事は僕が用意する。
君の手料理を食べたことはないけれど、絶対に僕の方が腕は上だ。


オネガイダカラ、ボクノメノマエカラハナレナイデ。



その答えが胸を貫く冷たい感触?
体の中心を伝う紅。

口から息を吸いたくても、酸素が喉を通らない。
眼下で起こった光景を意識すればする程、全身から力が抜けていく。

足、膝、腰、胸。

段階を追って体が折れていく。
自ら作り出した吹き溜まりの中に、仰向けに崩れ落ちていった。
頭を打ち付けた時、僕を蔑む君が見えた。


服を染め上げる液体の温かさも、背中に面している床の固さも、何も感じられない。


朦朧とする意識の中で、君の声が聞こえた。

「さよなら。」


僕の何が間違ってた?

僕に出来たのは、朧げに瞳に映る君の姿を追うことだけだった。

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贅沢な指

馴染みのバー。
待ち合わせに少し遅れて店に入る。

「双葉。」
カウンターから呼び止める声。
ブランド物のスーツ。茶髪で大きく開いた襟。そして、派手なアクセサリーで身を固めている青年。

外見の通り、彼の職業はホスト。
ただし、私は彼のお客でもなければ、お店に立ち寄ったことすらない。
関係はただの幼馴染。名前は聡太。源氏名は昔教えてもらったけれど、次に会う日までには記憶から消えていた。
家が近所で同い年だったこともあって、幼い頃はよく一緒に遊んだ。でも一時期、声をかけることすら憚られることもあった。
それから約10年。上京を機に、こうしてたまに2人で杯を交わす仲に戻っている。

東京で会うなり、ホストをやっているなんて聞いたとき、本当に驚いた。
元々社交的て気の利く性格だったけれど、まさかそれを活かした職に就くとは夢にも思わず。
両親には"飲食店の接客"と濁して伝えているそうだ。
ただ、その反動で仕事から離れてお酒を飲みたい時間が増えたみたいで、店から2駅ほど離れたこの店に通うようになったらしい。
店の所在を教えてもらったのは、私を含めてごく僅か。
この店は彼にとっての隠れ家。

カウンターには彼以外、誰もいない。手元にはほとんど飲み終わったグラス。既に一人で始めていたらしい。
テーブル席の客は新たな人間が入ってきたことに無関心。おかげで周囲のことを気にせずに話ができる。

「私、いつもの。」
「俺もこれもう一杯。」

新たに出てきたグラスを取る手には、いくつもの指輪がはめられている。
ただし薬指以外。
テーブルの縁に添えられた左手も同じ。

美容師という職業柄、指を飾ることができない私とは正反対。
首にかけた1つが指の代わり。今付き合っている彼からの誕生日プレゼント。

一方、彼がつけているのは、全てお客の女性からもらったもの。自分の給料では到底買えないものばかり。
しかも、どれがどのお客さんからのものということまで逐一記憶しているというのだから、ある意味マメである。


いつだったか聡太が言っていた。
「薬指は素の自分を見てくれる人からって決めてんの。」
あの時はかなり酔ってて、いつもより饒舌だった。自分でこんな暴露をしていたなんて覚えていないだろう。
常連の女性達だってきっと知らないこだわり。

「双葉?話、聞いてる?」
「え?うん。聞いてる。」
怪訝な顔をして横から覗き込まれる。その瞬間、ホストの一面が垣間見える気がして思わずドキッとする。今はただの幼馴染と飲んでいるはずなのに。

「そうかなぁ。最近、彼氏と上手くいってないとかじゃないの?」
ちょっとしたことで心配してくれるのは、正直嬉しくもあり、時に煩わしい。
でも、その心遣いは彼氏以上だ。

「大丈夫。倦怠期に入ったけど、何とかやってるから。」
実際、昔ほどお互いに干渉することはなくなった。それでも危機感を感じたことは一度だってない。正直なところ、私は今くらいの距離で付き合うのが一番だと思っている。

「そう?双葉がそう言うのなら追求しないけどさ。」
引き際を知っているのは、接客業の賜物か。昔は何でもないと答えるほど、ムキになって食いついてきた。おそらく、色々な人と触れ合う仲で身に着いたものだろう。

「そういえば、聡太こそ最近はどうなのさ。」
会話が途切れるのが嫌で、咄嗟に出てきた言葉。あまり聞いてはいけないとわかっていつつも、心のどこかでは聞きたくて仕方なかった。

「俺は相変わらず。お店の中で知り合った女の人は、どんなことがあってもお客さん。彼女達が恋愛の対象としてみてるのは、お店のホスト。俺はそれに答えて接客するだけ。営業時間外の俺に興味なんて持っちゃいないさ。」
その語尾は、まるで独り言を呟いているようだった。

私からすれば、中指の先ですら触れることのできない、遠くはなれた華やかな空間。その空間の中で働く幼馴染。
なのに、彼の言葉の節々からは寂しさしか伝わってこない。

汗をかいたグラスで一口だけ喉を潤すと、何かを思い出したかのように主張を続けた。
「お客さんは確かに大切だけどさ、気がつくと"この女性と恋仲になることはないな"って冷めた目線になってる。ホストの間は格好良い自分を演出してるけど、それ以外の格好悪い部分もひっくるめて、全てを知ってもらった上でないと付き合えないんだよね。」
全く理解できないわけではないけれど、それじゃ面白くない。今まで知らなかったことを知ることの積み重ねが、二人の間に深みを増していくのに。ある程度距離があるうちに何もかもがわかってたら、もっと近づこうと努力する意味がない。
もっと言えば、私だって、聡太を完全に理解なんかしていない。
それ以前に、昔みたいに自分のこと、あまり話さなくなっているのに。

心の中から湧き上がる憤りを抑えてるうちに、ある事実が頭をよぎった。
そういえば、東京に来てから、聡太の薬指が光ったのを見たことがない。
昔は、照れ笑いを堪えながら制服の裾からさりげなく見せる姿に、こっちが我慢できなくて吹き出したこともあったっけ。

きっと、擬似恋愛を繰り返すうちに、恋愛に至るまでの過程をどこかに置き忘れてきちゃったんだね。


もうすぐ閉店時間。
立ち上がって財布を取り出そうとする彼に、一言だけお節介。
「仕事以外ではもっと自分を出しなよ。」

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world

たった今から動き出す僕の世界。
ある一つの街を模したコミュニティサイト。
小さいながらも無限の可能性を持つ。

一人で大きくするのは大変だから、会員制で他人を入れることにした。
ただし、条件付き。
 1.日本語が理解できる人。
  単に僕が日本語以外、まともにできないから。

 2.トラブルを起こした人。
  言うまでもなく、即退会。

 3.バグを混入した人
  愉快犯は論外。

その他、僕の意に沿わないことをされた時点で、強制的に出て行ってもらう。
こんなところでも新世界と呼べるのなら、僕は想像主?神?


公開して1ヶ月。
評判は上々で、会員数は100人を超えた。
中には、あまりにも安い額で買い取ろうとする怪しい企業や、不正侵入を試みる奴も出てきた。
ある程度は無視、あるいは排除。それでも、四六時中張り付くことはできない。
仕方なく、セキュリティの強化に乗り出した。
本当はコンテンツを充実させる時間に費やしたかったのに。どんなに堅牢にしても、どこからか湧いて出てくる。完全にいたちごっこ。
仕事じゃないのに、連夜の対応。
にもかかわらず、住人に伝わるものなんてほんの僅か。当然、見返りをもらえるわけでもない。

一体、何のためにここまでしているのだろう。
世界を作るには身を粉にする程のボランティア精神が必要?

いい加減、疲れた。


あるときふと考えた。
この世界は現実?それとも偽物?

確かに画面の中とはいえ、目に見える形で動いている。
裏返せば、どれだけ書いたかわからないプログラムのコード。
所詮はインターネットという名を借りた仮想空間。

それでも、僕の発言・行為は何でも罷り通ってきた。
住人達も僕のやり方に賛同してくれた。

なのに、
僕が作り出した世界が思惑と違うところに向かっていく。
僕の世界が誰かに侵されている。
僕のモノが誰かに壊されていく。


こんな世界、もういらない。
でも、誰かに丸ごと渡すのは嫌だ。ここはあくまでも僕の所有物だ。
いっその事、全てを壊してしまおう。

ここを崩壊させるのに、労力も巨大な金槌もいらない。
運用しているマシンのボタン1つで全て終わる。
最後まで従ってくれた住人全てに、お詫びのメールを一方的に送りつけ、1ヵ月後に閉じた。


数ヵ月後。
また自分の世界が欲しくなった。
幸い、住人以外のデータはまだ残っている。
今度は他人を入れずに動かそう。
僕以外の住人は、僕の言うことを何でも聞くプログラムで十分だ。
暴走したらまた止めればいい。

僕は再び、マシンの電源に手を伸ばした。

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鮮華の夜

空が紺色に染まりかけた頃、遠くで乾いた音が弾けた。
少し間をおいて、大輪の花が咲く。

あ、始まった。

夕方から平屋根の上にシートを敷いて、打ち上げが始まるのを待ってた。
ここは3階建ての寮。もちろん学校の。
加えて、ここは女子校。校舎は人里離れた小高い丘の上に立ち、敷地の隅に全員が寝食を共にする寮が3棟立ち並ぶ。
周囲は高い塀で囲まれ、特別な用事がない限り、外には出られないことになっている。

この国の制度では、6歳から18歳までが義務教育期間。例外もあって、飛び級もあれば、留年もある。実際、私は2年飛び級していて、現在最終学年。ただし、飛び級して卒業する場合は、秋から始まる卒業判定試験に通らなければ卒業できない。でも、普通に進級していく場合は無条件に卒業できる。飛び級した場合は、本当にそれだけの力があるのかを試すというのが名目。
飛び級自体、5年に1人いるかいないかだから、試験に関する情報は噂程度でしか伝わってこない。

今は夏休み。生徒の殆どは帰郷している。残っているのは行き場のない数人だけ。とはいえ、私は別に家族と絶縁したわけではない。帰ろうと思えば帰れる。けれど、ここ数年は、何かと理由をつけて寮に居座っていた。

ここを見つけたのは一昨年のこと。屋根裏部屋から屋根に抜ける経路を偶然見つけて以来、花火が上がるこの夜だけは、ここで過ごすことにしている。


花火が上がるのは、この丘の下にある町の向こうを流れる大きな川から。
連続で咲いては散っていく鮮やかな花々に心を奪われる。
途中、打ち上げが止まる。我に返って辺りを見ると、日もすっかり暮れ、星が点々と煌いていた。

しばらくの間をおいて、後半戦が始まる。
今度はハート型や蝶など、ところどころで変り種が飛び出す。
去年まではなかった珍しい形を見つけるたびに、胸が躍る。

屋根の上で1人興奮していると、背後から声をかけられた。

「やっぱりここにいた。」
声の正体は、親友、ルリ。
同い年で、入学当時から5年間は同じ部屋だったこともあって、昔から何でも言い合う仲。
屋根までの道を知った翌日、他の誰にも言わない約束で、彼女にだけ教えた。ここに一緒に来たことはなかったけれど、まさか覚えていてくれたとは。
両手にはジュースが入ったビンと2人分のグラス。

「隣、座らせて。」
私が何も言わないうちに、右側の空スペースに腰を落とすと、グラスにジュースを注ぎだした。

「でも何でここに?帰ったんじゃなかったの?」
私が知る限り、毎年夏休みの始まりと同時に実家に帰っていた。もし今年に限って寮に残っていたとしても、夏休みが始まってからは一度も会ってない。

「両親が昨日から旅行に行っちゃってて、家にいるのがつまらなかったから戻ってきちゃった。寮長の許可は取ってるから大丈夫。それに、もうすぐ学校も始まるしね。」

飲みきったグラスにおかわりを注いでいると、一番答えたくない質問が飛んできた。
「そういえば、カナはどうして実家に帰らないの?」

ジュースが気管支に入ってむせる。咳き込んでいる私にさらに畳み掛けてくる。

「だって、夏と冬の長期休み、全然帰らないじゃん。昔はよくお土産を交換したのに。」

興味津々の目で訴えてくる。今まで誰にも言ってこなかったこと。少し迷う。でも、彼女なら家のこと知ってるからいいか。
頭の中で一通りシュミレーションをしてから口を開いた。

「今、家ね、兄が2人とも帰ってきてるんだ。」
何年前だったか忘れたけれど、ルリは一度夏休みに家に来たことがある。そのとき、2人の兄にも会っている。
兄2人とは歳が離れていて、物心ついた頃には既に全寮制の学校に入れられていて、家にいなかった。だから、休みの度に会う、親戚の人と同じような感覚だった。
それから時は流れ、2人とも1年飛び級で卒業して、その上の学校に進んだ。そこでさらに3年間。今となっては学者の卵として親に敷かれたレールの上を順調に歩いている。

「家に優秀な兄2人が両親の助手として帰ってきたの。1人ならまだしも2人もよ。で、劣等生な私は合わせる顔がないってわけ。」
「劣等生って、また自分を卑下する悪い癖。いい加減に治したら?」
マイナス思考になる私をいつも指摘してくれる。
でも、私がなかなか治せないのは、一時期病気になったのが原因で授業が全く受けられなくて、2年留年した過去があるから。両親は何も言わなかったけれど、兄達はここぞとばかりに『一家の恥だ』と叩いてきた。それまでは4年飛び級してた私が面白くなかったんだと思う。こんな言葉、両親にも投げられたくはないが、ほとんど一緒に生活してない、血の繋がっているだけの他人に言われる筋合いはない。
ここ数年の出来事が一度に蘇る。幾つもの思い出したくない出来事が一度にフラッシュバックする。平然を装いたいのに、シートの上に置いていた手に力が入る。


「そうだ。カナは卒業後はどうするの?上に進むの?」
突然話題が変わる。きっと、これ以上同じ話題を続けられないことを悟ってくれたのだろう。私もそれに同調して、気分を変える。

「卒業後?旅に出るつもり。本の中でしかなかった世界を実際に見に行きたくて。その後、気が向いたら進学かなぁ。」
ルリは一瞬驚いていたが、すぐに納得の表情を見せた。
「旅・・・かぁ。実は、進学はないかなぁって思ってた。『我が道を行く』のがカナだから。旅っていうのにはびっくりしたけれど。」

「卒業後のことは去年からずっと考えてた。きっかけは去年の花火。今もそうだけれど、あの頃も既に海の向こうの遠く国では戦争が繰り広げられていて。そこでは大量の火薬が使われているでしょ。でも、目の前の花火にも火薬が使われている。使い方はそう対して変わらないのに、効果はまったく正反対。」
ルリは無言のまま、時折相槌を打つ。

「でも、進学した後にやることといったら、『社会と技術の発展』に貢献するための研究。社会ってあそこでは国力のことだから、戦争に勝てる研究はできても、花火をもっと綺麗に見せる研究は役に立たないから切り捨てられる。それだって、技術の発展に十分に繋がるのに。学校の外のことなんて何一つわからない環境で育ってるのに。そんな世間知らずの頭でっかち養成機関に入るよりは、同じ時間を有意義に過ごそうと思ってね。」

「それってつまり、家族と同じ道は歩かないってこと?」
図星。後半、ストレートに言い過ぎた。

「でも、絶縁するって意味じゃないから、心配しないで。」
「それならよかった。私には止める理由なんてないから。」
安心しきった表情で、最後の一杯を私のグラスに注いだ。


「花火、終わっちゃったね。」
真っ暗になった屋根の上に、小さく明かりを灯し、片付けを始める。

「カナ、来年もこの花火を見ようね。」
少しの間、理解に苦しんだ後、自分なりの解釈をぶつけた。

「私はここよりも、もっといい場所を探すけどね。」

私達は小さく指切りをした。

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晩夏慕情

8月、それも下旬に帰省するのは本当に久しぶり。
帰省ラッシュと重なるのが嫌で毎年避けてきたのに、今年は仕事の都合でこの時期しかとれなかった。


実家に帰ってきての2日目。
特にこれといって行きたいところもなく、家で暇を持て余していると、ポケットに入れていた携帯電話が鳴り出した。
名前を見るやいなや、あわてて取る。

「今日の夜、お祭りあるんだけど、行く?」
「行く!」

芽衣からの電話だ。
彼女とは小学校からの付き合いで、よく一緒に遊んだ仲。
高校卒業後、彼女は地元に残り、私は上京した。

それからも帰省の度に会っていた。
もちろん今回も、休みが決まった瞬間に、彼女に日程を教えていた。


夕方。
先月のバーゲンで買ったばかりの真っ白なワンピースに身を包む。
こんなことなら浴衣をもってくればよかった。

待ち合わせはお祭りが行われている神社の鳥居前。
家族連れ、カップル、友達同士。
普段は閑散としているにもかかわらず、今日に限っては、多くの人でごった返していた。

「夏音、こっち。」
左手で袖をつまみ、右手をひらひらさせて私を呼ぶ芽衣の姿が見えた。
黒を貴重とした浴衣が、今までの彼女にない大人らしさを醸し出している。

「ごめんね、待たせちゃって。」
「うぅん。行こう。」

境内に続く石畳。両側には様々な種類の屋台。
金魚すくい、綿菓子、カキ氷。
そういえばここ数年、花火大会には行ってたのに、縁日は全く行ってなかった。
幼い頃はよく親の手に連れられて、飽きるほどいろいろなところに参加してたのに。
久しぶりに見かける光景にもかかわらず、そのどれもが新鮮に感じる。思わず屋台の一つ一つに夢中になってしまう。

「あ。」
いつの間にか芽衣がいなくなっていた。
屋台ばかり見ているうちにはぐれてしまったようだ。

肩にかけていたバッグに手を突っ込み、携帯電話を探す。
家を出る前にも確かめたから、絶対に入っているはず。
屋台の隅に逃げて、バッグの中をかき回す。
下の方に入っているものを押しのけているうちに、硬くて四角い感触に指が当たる。
その形状から、確信を持って掴み取ったちょうどそのときだった。

「高瀬?」
振り向いた先に立っていたのは、中学の同級生、塚口だった。
バッグを抱えたまま声を失う。

「よっ!」
浴衣から伸びた左腕を先を軽く振る仕草は昔のまま。顔はそれ程変わっていないのに、体つきは見違える程がっしりとしている。

そして、右手の薬指にはひっそりと輝く指輪。ついつい見てしまう。
大人の恋愛というものを意識してしまう歳になったこと、10年前に密かに意識した時期があったこと。
彼とは同級生以上の関係になってさえいないのに、喉の奥でもやもやした、複雑な感覚に襲われる。

「1人?」
「友達と来ていたんだけど、はぐれちゃって。」

その後、二、三言交わすも、どうしても一点に意識が行ってしまう。
それを隠すために、ずっと握っていた携帯電話を取り出す。

「待たせちゃいけないから、そろそろ行くね。」
本音はもう少しこの場にいたい。けれども、彼とあまり面識のない芽衣には見られたくない。彼女の顔が浮かんだ瞬間、誤解されることが怖い。

「俺も。じゃあ、またな。」
そう言って、彼は人込みの中に消えていった。
完全に見えなくなる寸前、彼に寄り添う小柄な女性の姿が見えた。指まで見ることはできなかったが、きっとおそろいのものをしていただろう。


無言で見送っていると、後ろから芽衣の声。
「夏音見っけ。」

外見は歳を追うごとに『綺麗』という言葉が似合うようになっているのに、性格は相変わらず無邪気のまま。
尚且つ、いつの間にかわたあめを買ったらしく、美味しそうに頬張っている。

「わたあめ見てたらお腹空いてきちゃった。私も何か買おうかな。」

再び屋台めぐり。
その間、昔話と同級生の近況で花を咲かせた。
当然のことながら、芽衣の口から塚口のことが語られることはなかったが、人とすれ違うたびに彼を探してしまった。
結局、お祭りが終わるまでずっと歩いていたが、足が痛くなっただけで、彼を見かけることすらなかった。


中学を卒業してから、彼以外の男性にも恋した。その中には実際に付き合った人もいる。生憎、今はいないけれど。
あの頃に比べればいろいろな男性に出会っている。それでも彼を見ただけで反応してしまうのは、付き合い出して知った現実よりも、いいところしか見えない恋心の方が、記憶に色濃く残るものなのだろう。
現実より理想が勝ってしまった一種の矛盾にクスリと笑う。

自分の中で導き出した答えに笑いそうになる私に、怪訝な顔をした芽衣が隣から顔を覗き込む。
「急にどうしたの?」
「なんでもない。昔のことを思い出しただけ。」

もうすぐ8月が終わる。夏特有の暑さは残っても、秋はすぐそこまで来ている。
来年の夏こそは、彼に劣らない、おそろいの指輪を付けた人と境内を回りたい。

展望がはっきり見えたところで、もう一度、今度は芽衣に悟られぬよう、こっそりと笑みを作った。

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傍観道楽

昨日から続く炎天下。

向かいのビルには天気予報を表示する電光掲示板。
黒地にオレンジ色で描かれた『39℃』の文字が踊る。
その正体は無数の電球によるものだが、あの色合いだけでも、極寒の地と衛星中継したら、そこに住む人にもここの暑さを伝えることができそうだ。

そして、ここ一帯は、高層ビルが所狭しと立ち並ぶ。
公園以外の空き地には次々と建設予定地の看板が立ち、完成予定図通りの建物を作るべく、急ピッチで推し進められた。
平面に開拓できないなら、次は立体的に。
発展した技術力に比例して、発想の転換の幅も広がったようだ。
おかげで海風が入らなくなり、『ヒートアイランド』なんて味気ない言葉で呼ばれる始末。
こんなものが建つ前は、『真夏日』っていう、まだまだ季節を感じる表現で済まされていたのに。

立地条件や気候を考慮するという点では、機械がなかった頃の人の方が勝っていたと思う。
もしその当時の人が携わっていたら、もう少し快適な夏になっていたかもしれない。

それに、こんなに高い位置から人間が街を見下ろせるまでになるなんて。
ずっと僕の専売特許だったのに。
ここで日夜働くどの人間よりもずっと昔から。


人間は僕みたいな奴のことを『天使』って呼んでるらしい。
ただし、僕らは同胞のことを『天使』なんて神聖な言葉で括ったことは、一度だってない。

でも、僕は人間が思っているほど、大層なことはしていない。
神様からの御遣いなんて役目、そう滅多に受けることはないし、そんなにエライ身分でもない。

僕は興味ある一人を見つけては、その一日を、遥か上からぼんやり眺めているのが好きなだけ。
特に、物事が上手くいっていない人間が立ち回りなんて、世界のどこかで作り出されたどんな喜劇よりも興奮する。

以前は10階建て位のビルを見つけては、屋上のフェンスに腰掛けるだけで、十二分に満足できる時間が過ごせた。
幸い、暑さを感じる肌なんて持っていないから、日照時間を気にすることなくいられる。
屋上に誰かやってくるなんて滅多にないし、仮に来たとしても、大抵は僕の姿を眼中に収めることができない。
なのに今や、これと同じ高さのビルに行っても、それよりも上の階に拠点を置く人間が増えてきた。
人間よりも低いところにいるなんて、不快極まりない。
僕は常に見下ろす立場でいたいんだ。

加えて、僕らは人間に姿を見られることを禁忌としている。
稀に、僕らの姿を捉えることができる奴がいるとのこと。
詳しくは知らないけれど、想像を絶する罰則に耐えなければならないらしい。
背中に白い羽が生えている以外は、対して変わらないのに。

もっとも、僕はその羽を人間なんかに見せる気なんてない。
気配を感じたら、どんなに面白い展開であってもすぐにその場を立ち退く。
僕自身で決めたルール。
僕だけの楽しみを自分のヘマで奪うなんて馬鹿げた真似、絶対に避けねば。


やっと今日のターゲットを見つけた。
トラブルが起きたみたいで、顔面蒼白になっている。
あの様子だと、解決までに数日間はかかるだろう。

特等席は向かいに見える一つ飛びぬけたあのビル。今のところ、屋上には誰もいない。
せっかく僕が見てるんだ。
せいぜい、楽しませてくれよ。

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一番ほしかったモノ

誕生日でもないのに、彼から指輪のプレゼント。
誰もが羨むブランドもの。
夏のボーナスが出た瞬間に買ったとのこと。
社会人2年目一人暮らしで、生活に余裕があるわけでもないのに。

「ありがとう。」
咄嗟に出てくるのは上っ面の謝辞。
取り繕った笑みを浮かべてケースを開ける。
今までの経験から、どんな形のものかは大体想像がついている。

また、このデザイン。
シルバーのリングに、1つだけ大きな宝石がついているタイプ。
台座に乗っている石が違うだけで、それ以外は前と殆ど変わらない。

私が好きなのは、宝石が埋め込まれているタイプのシルバーリングなのに。
毎回、嬉しい気分を演ずる自分が嫌になる。

指輪だけじゃない。
ネックレスもピアスも香水も。
いつも私に内緒で買ってくる。

服や靴は一緒に選んでくれるし、映画や旅行に至っては事前に相談してくれる。
アクセサリ類だけは一度だって、私の好みを聞いてくれたことはない。
付き合いだしてもうすぐ1年。
思えば最初からそうだった。
たまに私が買ったものをしていくと、見つけた瞬間に顔を歪ませる。
ただ単純に、その日の服に合わせただけなのに。
爪先立ちの背伸びも、強引な押し付けも、日を重ねるごとに不快になっていく。


きっかけは、たまたま同じ現場で仕事した仲での打ち上げを兼ねた飲み会。
彼と私は元々は別の会社の人間で、その飲み会後、私と彼は別の現場に行くことが決まっていたが、そ

の場で連絡先を交換したところから始まった。
当初は理想の相手だと浮かれていたのに、1ヶ月も経たないうちに現実との歪みが生まれた。
なのに続いているのは、ただの惰性なのかもしれない。

私は初対面の彼がよかったのに。


数日後、ふとしたことで喧嘩したついでに言ってしまった。
「あんな指輪、いらない!」
気付いたら、この間の指輪を外して投げていた。

それに対し、彼から出てきた言葉に耳を疑った。
「人が買ってきた指輪位、文句言わずに付けろよ。こっちはそのデザインが好きだから、似合うと思っ

て買ったんだし。」

これであきらめがついた。
彼が求めていたのは、私みたいに自分の好みを優先する女じゃない。

「じゃあ、これを喜んで付けてくれる人と付き合えば?」
捨て台詞を残し、そのまま家へ。
その後、彼は追いかけてくることも、連絡を取ってくることもなかった。

帰宅後、彼からもらったものを、すぐさまネットオークションに出した。
"思い出を金にする。"
テレビの向こうで、顔にモザイクかけられた女は、嬉々としてプレゼントを売り物にしていた。
そのときは汚く感じたのに、今は不思議と共感できる。

無言でデジカメに収め、それを次から次へとアップロードする。
単調な作業の間、目の前に並んだものに何も愛着を感じなかった。
最後の出品が終わったとき、快感すら覚えた。


私が求めてるのは、高価な指輪でもネックレスでもない。
難しくも、お金がかかることでもない。

「一緒に見に行こうよ。」
等身大の、この言葉だったのに。

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虚空

廃校となった高校の階段を一段ずつ上がっていく。
三階建てのこの建物は、2年前の卒業生を送り出した後、閉鎖された。
来年には取り壊すことも決まっているらしい。

階段や手すりには、人差し指で擦って跡ができるほど、砂埃が溜まっている。
たまに振り返ると、足跡がくっきりと残っている。
さらに、閉め切ったままの淀んだ空気が鼻を刺激する。

三階は最後の1年を過ごした場所。
思い出が走馬灯のように回り出す。
少し寄っていこうか。
いや、今は先に進もう。
過去の記憶を振り切るように、少し駆け足になる。

最後まで登りきった先にあるのは、1つの扉。
その先は三階とほぼ同じ面積の屋上。
息を整え、取っ手を強く引く。
しばらく開くことのなかったこの鉄の扉は、重い音を立てて動き出した。
隙間からは眩しい光が両目を刺激する。
久しぶりに太陽に当たったような、そんな錯覚に襲われる。
ようやく、人一人通りぬけられるスペースを確保したところで、素早くすり抜けた。


ここへは、数える程しか行ったことがない。

テレビの中では梅雨真っ只中と言っていたのに、珍しく今日は雲ひとつない青空が広がっている。
あの時の空模様を再現しているようだ。


手すりに近づき、右手に持っていた花束を立てかける。
おもむろに胸元の煙草を取り出し、残り二本の内、一本に火を灯す。
遥か下に見えるグラウンドに煙を吐き捨てながら、走馬灯の続きを回した。


最後に来たのは卒業式。
ホームルームが終わった後、彼と二人でここに来た。

あいつは、卒業後は写真家の修行を積むと言っていた。
当時、東京の大学に決まっていた俺は、将来の夢を抱こうともしていなかった。

半分冗談交じりで訊いたことが、今も鼓膜の中で反響する。

「もし、最高の写真を撮るためだったら、どんな力が欲しい?」

あいつは戸惑いを見せつつも、
「どんな力でもいいなら、羽が欲しいね。自分の意思で飛べるなら、空をどんな形でも切り出せるから。」

性格同様、純粋で生真面目な答え。
幼い頃から従兄弟と言われて育ってきた筈なのに、血の繋がりがどこかで途切れていると思う位、性格は正反対だった。
にもかかわらず、一度も仲違いすることがなかったのは、互いにどこか無い物をわけあってきたからか。

この日も空は穏やかな快晴で、離れ離れになる2人の船出を笑顔で送り出しているかに見えた。
それからの未来など、誰が予想しただろう。


「あれから2年か。」

後で聞いた話だが、あの日もすっきりとした青空だったという。

色々な人から事の顛末は耳にしたが、聞けば聞くほど心の中のあいつが削られていった。
その度に吹っ切れようとした結果、喫煙量だけが増えていった。

最後の一吹きをして、手持ちの携帯灰皿に捨てる。
きっと、煙草を始めたと知ったら、彼は驚くだろう。
しかし、咎めはしないだろう。
そこまで強くなかったことは、他でもない、俺がよく知っている。

箱の隅から覗く最後に一本。
取り出し、火を付ける直前で何か思いついたかの如く、箱に収めた。

迷惑がるかもしれないけれど、最後の餞に。

花束の脇に置くと、もう一度空を見上げた。


あの時、お前に羽は生えたか。
自由な角度で覗くことができたか。
今は、最高の空を探せているか。


空は相変わらず、記憶と違わぬ色彩で描いていた。

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Ridiculous

頬を膨らませて眉間に皺を寄せたままの彼女。
昨日の電話で触れてはいけないことを言った?
メールで何か頼まれてた?
それとも今気に障ることをした?

どれも身に覚えがない。

コーヒーショップのテーブル席で、無言の時だけが流れる。

これで下手に話題を振ると、余計に彼女を刺激する。
棘のある切り替えしをしてくるうちはまだいい。
最悪、頭から水をかけられて「さようなら」とも言われかねない。
普段は甘えてくるのに、何か不都合なことがあると、途端に気性が激しくなる。
こんなときの対応には毎回手を焼く。
ただ、今みたいに理由がわからないのは初めてのことだ。

相変わらず彼女は無言のままこちらを睨んでいる。
いい加減、向かい合ってるのが辛くなってきた。


覚悟を決めて、話を切り出す。
自分に原因があったとしたら、平謝りして、彼女の気が晴れるまで、何でも聞いてあげよう。

「今日、何で不機嫌なの?俺、何かした?」
「下の歯の歯茎の外側に出来た口内炎が痛いの!」

間髪入れずにまくし立ててきた。
でも、珍しく一言だけで終わった。
グチグチと文句を言われることを覚悟していたのに。

それにしても『口内炎』が原因だったとは。
膨れ面をしていたのは、炎症部分が擦れるのを防ぐためで、機嫌が悪く見えたのは、痛みを堪えていたからか。

真面目に考えて損した。
緊迫感でカラカラになった喉を、アイスコーヒーで一気に潤す。

悩んだ時間を返せ。
こういうときこそ強く出たいのだが、それをきっかけに余計な荒波は立てたくない。

時には公衆の面前で詰られることもあるのに、自分からは嫌いになることも、憎むこともない。
これが彼女以外の女だったら、今頃気にかかる存在にもならないのに。


「この間言ってた映画、観にいく?」

先程までの言動を恥ずかしがるかのように、小さく頷く。
ただのご機嫌取りということは、自分がよくわかっている。
しかし、この仕草に、彼女の可愛らしさを再認識してしまう。

他人からしてみれば本当に下らない理由で怒っているだけなのに、そんな時でも彼女の魅力を求めてしまうのは、もはや軽い中毒にかかっているからなのだろう。

「早く。映画、行くんでしょ?」
いつの間にかテーブルの上は片付いていた。

「あ、あぁ。」
また彼女の機嫌を損ねたら、今度こそ何されるかわからない。

急いで席を立ち、店を出ようとする彼女の後を追いかけた。

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SWITCH - 2

「一体何が不満?」

"きっと私以外にも同じ質問を投げているんだろうね。"

あたりきりなマニュアル本に載っていそうな展開。
こちら側の対応策が出回っている位なのだから、存在していても不思議はない。
読んだことはないのに、すらすらと文章が浮かぶ。
もし、それを読んでいたとしたら、これほど滑稽なものはない。

しかし、今はそんな妄想で満たされている状況ではない。

ここへは、自分の人生の中のごく小さな未来を変えるために乗り込んだ。
この場を大袈裟に例えるなら、自分の言動次第で、今まで乗ってきた電車から、新しくできたばかりのレールを走る電車に乗り換えるため

の切符を買えるかどうかが決まる。

そして相手は直属の上司。
とはいえ、1対1で面と向かって話したことなどほとんどない。
組織図という紙の上だけの、希薄すぎる関係。

別に、目の前のこの人に落ち度があったわけではない。
そもそも、仕事をする上で深く関わった覚えすらない。

とはいえ、一瞬たりとも気を緩めてはいけない。
油断したら足元を掬われる。

"地の底まで引きずり込まれたら、しばらく地上に出られなくなるよ。"

ここに留まったところで報われないことなど、百も承知。
それに、ここで意思がふらつくのなら、初めからこんなことはしない。


漠然とした不満と不安から、半年前に行動を起こした。
水面下で、ひっそりと。
その間、幾度となく体調不良な自分を演じることも、急用がある振りもした。
時に仕事仲間を欺いては、新しい場所へと足を運んだ。
メールのタイトルだけ見て涙を呑んだことも、理不尽な条件を突きつけられて諦めたこともあった。
それらを全て乗り越えて、やっと掴み取った次の行き先。

ここまでの過程がきれいだとは思っていない。
しかし、汚いと批評する者はいないだろう。
理由は1つ。
"食いっぱぐれない方法"は、誰もが死に物狂いで追い求めるものだから。


おかげで嘘をつき方だけは上達した。
ここでもそれを実践。
見透かされないよう、相手の眉間に照準を合わせ、用意してきた言葉をそのまま音にする。

「別の業種を目指そうと思いまして。」
"本当は同業種の待遇のいい企業に行くだけ。"

「この会社ではできないことなので、考えた結果、決意しました。」
"このまま残っていても、できないことはない仕事なのにね。"

「ですから、今おかれている状況に不満があってということはないです。」
"この間の飲みでの愚痴はどこへやら。"

少しの沈黙。
この間が恐怖を煽る。
平常心を装い、真っ直ぐ前を見据えてじっと待つ。


「それならば引き止めても仕方ない。」

意外な返答に拍子抜け。
こんなにもあっさり認められるとは夢にも思っていなかった。

その後、今の仕事の現状を軽く話しただけで、その場はお開きとなった。


帰り道。
柔らかな涼風が火照った頭を撫ぜる。
物事を考えるには丁度良い。

ゆっくりと歩きながら、ついさっき保存された、断片的な記憶を読み出す。

"狙い通りの結果になってよかったじゃない。"

本懐と遂げた。
今回のことで嘘を増やす必要もなくなった。
これで心置きなく新しい場所に行ける。

体に圧し掛かっていたあらゆるものが剥がれ落ちていく。
その逆に、達成感が腹の奥底から音となって駆け上っていく。

夜の街は、喉元から漏れる小さな声をかき消した。

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SWITCH - 1

時計の短針が『7』の右上を指した瞬間から脳内を劈く電子音。
無機質な音の連続が体を起こす気力を奪っていく。

自力で目覚めていない時ほど寝覚めの悪いものはない。
ならば、せめて起き上がる意思が確立されるときまで待ちたい。
頭を布団の中に埋めたまま、手の平を伸ばし、無作為にはたく。
数回の試行を経て、中指が平らな突起に当たる。

パチ。

音の消えた部屋。
あと5分。


連日、終電までの残業。
加えて、休日返上で出勤。
最後に丸一日遊んだのはいつだったっけ?
そろそろ有休取ってでも休みたい。

混濁した意識が次第に薄れていく。
これが深い眠りに変わるまでの間ほど、心地よいものはない。
自然とそれに身を任せる。

完全に意識が途切れる寸前で、再びあの電子音。
電流が心臓を一気に駆け下りた感覚に襲われる。
反動で、肩から上が勢いよく宙に浮く。

時計の裏側に付いている二度寝防止機能。
また解除するのを忘れていた。

時計を手に取り、薄っすらと開いた片目で、針の位置を確認する。
長針は既に[『1』を通り過ぎ、今にも『2』を貫こうとしている。

寝坊寸前。
もはや布団に包まっている余裕はない。
無意識のうちに、人差し指で背後に隠れたツマミを押し上げる。

カチ。

小さな、存在感のある乾いた音を最後に、寝坊への警告が止まる。


それでも体は正直で、まだ眠りを欲している。
判断能力の欠けた頭で目蓋を閉じようとする力、横になっていたい意思に必死に抵抗する。
社会人としての義務感がベッドから引き離す。

ふと脳裏をよぎる誰かの甘い囁き。
「今日位、体調不良ということにしておこうか。」
その誰かは、同時に今抱えている作業という現実も突きつけてくる。

休む権利だけは十分過ぎる程持っている。
ただし、残業時間の増加を代償として支払うなら、今は取っておく方が懸命だ。

ふらついた体を二本足で支えながら水を一口だけ取り込む。

ゴク。

喉から胸の中心を伝って、脳に冷たい刺激を与える。


ようやく血が全身に巡りだす。
全身で朝を認識する。

また今日も昨日と変わらない朝。
スケジュール通りに事が運べば今週末は久しぶりの休み。
淡い期待を抱きつつ、玄関の鍵を開ける。

カチャ。


開いたドアに再び鍵をかけたら、もう後には引けない。
今用意されている選択肢は、会社に向かって前に進むことだけ。

たくさんの切り替えポイントで、いつも『出勤』になる道筋を選んでしまう。
たまにはゴールが『休み』になる経路を辿りたいのに。


今日こそ早く帰ることを願い、いつも通りの一歩を踏み出す。

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