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2008年9月

夢のアト - 1

新宿、高層ビル群。太陽から地表へ、熱と光の過剰投与。
行き場のない熱が至るところにあふれている。

石塚里緒は、その真っ只中を歩いていた。

街頭ビジョンの天気予報は、「赤い太陽」と「35℃」を交互に映す。

黒のリクルートスーツが重く体にまとわりつく。パンプスの底が地面に吸い付く。久しぶりに履いたこともあって、爪先に痛みが走る。

転職の面接。
10月には新しい会社に入る。そうなると、1ヶ月前の9月には辞表を出さなければならない。そこから逆算すると、8月中には新しい会社の内定をもらっておきたい。
そうなると、必然的に熱の逃げないコンクリートジャングルの中を歩き回ることになる。

額に滲む汗をハンカチで押さえる。しかし、収まる気配がない。
つい、通り沿いの店に目が行く。

仕事は体調不良を理由に、一日休みをもらっている。
この後、特に予定はない。
会社の人間にこの姿を見られなければ、夜まで悠々と過ごすことができる。

ここ数ヶ月、彼女は日付が変わる間際まで、貸し与えられたマシンと向かい合う生活をしていた。
家に帰ったら、お風呂に入って寝るだけ。
休日、どこかに遊びに行くなんて、もってのほか。
それが当たり前になりかけていた。

それでも仕事が終わらない。加えて、周囲の人間関係は、里緒が参画した当初から最悪だった。
互いに作業と責任を押し付けあう。力が弱い程、作業負荷の高い仕事を割り当てられる。
誰も助けてくれない。誰もSOSを出さない。

久しぶりに羽を伸ばしたとしても、罰は当たらない。
有休は労働者の権利。
朝、嘘をついて休むことに抵抗を覚えつつ、会社に連絡を入れた。
電話ではなく、メール。
送信ボタンを押した瞬間、肩の力が抜けた。
文明の利器とは、時として弱者の強力な武器となる。

遅めの昼食と少しの休憩にありつくために、長時間座って過ごせる場所を探す。
200m先にファーストフード店が見える。

干からびそうな体に冷水を取り入れるべく、ゆっくりとした足取りで近づく。
しかし、店まであと数歩のところで、動きが止まる。

「あ。」

見知った顔。
相手も気づいた。こちらに駆け寄ってくる。

「直さん!」

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夢のアト - 2

佐々木直人は数年ぶりに会う里緒に驚いていた。

大きな鞄とグレーのスーツ。それにフレームのない眼鏡。
長身で端正な顔立ちをしていることもあり、優秀な社員に見える。


「里緒ちゃん、だよね?」
「はい。直さんもお変わりなく。」

互いに、次の言葉に戸惑う。

「とりあえず、立ち話も何だから、どこかに入ろうか。」

唐突に直人が歩き出す。
それに里緒も従う。

すぐそばのファーストフード店になど眼中にもくれず、里緒が今歩いてきたばかりの通りを進む。
付き合っているわけでもないのに隣に行くのは失礼な気がして、里緒はわずか斜め後ろから彼を追った。

着いた先は、注意深く見てなければ見過ごしてしまうような、小さなカフェ。
客層は、穏やかな午後を過ごす老人から、暇をもてあます学生。
誰もが自分以外には関心がないようで、レジ付近にいた女性店員以外、里緒達に一瞥をくれるものなどいなかった。

店員に案内されるまま、壁際の席に向かい合って腰をかける。
無表情なその女性は、事務的な態度で注文を聞いていくと、さっさと持ち場に戻ってしまった。

「東京で就職したんだ?」
「えっ、はい。」

即答するも、緊張で声が上ずる。

初めて会った時、直人はライブハウスのステージでドラムを叩いていた。
どんなに熱いステージでも淡々とスティックを振るう。
コットンシャツに黒のパンツ姿も相俟って、ステージの後ろから、他のメンバーとは異なる存在感を放っていた。

一方、里緒は、ライブハウスの後方から、その姿を追いかけていた。
友達の縁で付き合っていたボーカルが所属するバンド。
その友達と、もらったチケットを片手に、よく遊びに行っていた。

「今は?もしかして営業の外回り?」
「いえ。転職活動中で・・・。今さっき面談をしてきたところなんです。」

俯き加減に答える。転職を恥じているわけではないが、どこか、後ろめたい気持ちがあった。

「転職・・・か。俺も考えたことあったなぁ。結局、今の会社に居ついてるけどさ。」
視線を逸らし、窓の外を眺める。
せわしなく歩く人々の群れを見て、何かを思い出しているようだった。

「今は営業やってる。今日もこれから取引先と打ち合わせの予定だったんだけど、先方にすっぽかされちゃってね。そういうときはここで大体時間潰してる。社会人は全然来ないし。ここ、意外と穴場だよ。」

程なくして、例の店員が頼んだ品を運んでくる。
トレーには2つのコーヒーカップが並ぶ。

里緒は少しだけ背伸びをした。

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夢のアト - 3

「今、達樹が何してるか、知ってる?」
里緒の背筋に電気が走る。

久しく耳にすることもなかった名前。
彼は直人と同じバンドで、ボーカルを務めていた。
友達以上から、顔見知り未満に落ちた関係。
意図的に情報が入ってくることを拒んだ。結果、今の今まで、存在自体が消えていた。

「いえ、知らないです。」
平常心を装おうとして、両の掌に汗が滲む。

「あいつ等、メジャーデビューまで行ったらしいんだけど、最近解散したんだって。」
「・・・そうですか。」
次の言葉が続かず、俯く。今の里緒にとって、大して興味の沸かない話題。

「そういえば、直さんは今もドラムを叩いているんですか?」
場を取り繕うために、率直な疑問を投げる。

「今は全然。ドラムもバンドも、大学卒業と同時に辞めたんだ。」
『未練』の二文字も感じさせない、さらりとした口調。
そして、里緒にとっては、望まない答えだった。

「大学卒業って、私が行かなくなってからすぐじゃないですか!一体どうして。」
言葉に詰まる。
当時、ワンマンをするには程遠い状態ではあったが、バンド内部の関係は良好だった。
少なくとも、里緒の目にはそう見えていた。

「その前の年の春には就職先が決まっていたし、加入当時からバンドは大学卒業までって決めてたからね。」
それから直人はコーヒーを一口だけ飲み込むと、一度だけ深く息を吸った。

「辞めるときはもめたよ。特に達樹とはね。彼は音楽で自分の存在を世間に認めさせようとしてたから。その歯車として、俺のドラムが必要だったみたい。」
「認めさせる?」
妙な言い回し。その真意を飲み込めず、過敏に反応する。

「達樹の理想は、自分が作る音楽が一番だった。どんな名曲を前にしても、屁理屈を並べて認めなかった。」

嫌な記憶が蘇る。
その日、里緒は達樹との待ち合わせの間、歌詞が良いと評判の曲を聴いていた。
遅れてきた達樹が珍しく興味を示してきたため、仕方なくイヤホンを貸した。
すると、1フレーズも聴かないうちに、イヤホンを投げ返し、里緒に罵倒を浴びせた。
演奏技術が未熟だの、曲に抑揚がないだの、自分の方がもっと名曲にできるだの。
当時は唖然とするしかなかった。しかし、今になってみると、直人の言う通りで、思わず笑いがこみ上げてくる。

「あいつは子供みたいにごねる。それはレコード会社と契約解除された今も変わらないって。」
直人の目は、まるで達樹という子供の面倒を見てきた親のように優しかった。

「最近、彼に会ったんですか?」
「達樹には辞めてから全然会ってないよ。この間、ちょうど聡史に会ったんだ。」

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夢のアト - 4

「聡史はスタジオミュージシャンとして食いつないでるって。」

聡史はメンバーの中で、唯一バンドを掛け持ちしていた。小柄な体つきをものともしないベース弾き。
体全体から繰り出されるパフォーマンスは、しばしばフロントマンの達樹を凌駕することもあった。

「解散が決まったとき、裏方での道を色んなツテを頼って切り開いてもらったんだってさ。あいつの演奏技術、他のバンドからも一目置かれてたしね。」

それだけでなく、彼はピアノも弾けたため、曲によってはキーボードを担当することもあった。
ベースにするか、キーボードにするか。それは彼の一存で決めていたという。
それだけでなく、ギターも弾けたらしいが、直人が辞めた後まで黙っていたらしい。

「ベースほどではないけど、コード押さえる程度だったら弾けたんだって。でも、聡史の周囲はギター弾きばかりだったから、バンドを組むためにベースを選んだんだってさ。」

聡史は直人が加入する1年前、達樹によって連れてこられた。本人曰く、スカウトしたとのこと。しかし、聡史は条件を出した。一つは、もう一つのバンドとの掛け持ちを許可すること。もう一つは、作詞作曲をさせること。

この条件を当時のメンバー、特に達樹は渋々承諾した。
しかし、聡史が曲作りに加わったことで、幅が広がり、デビューに大きく近づいたのは、たとえ結果論であったとしても、まぎれもない事実である。

「達樹は腕の良いベーシストを呼んだはずだった。作詞作曲は達樹の専売特許だったからね。でも、聡史以上のベース弾きが見つからなかったから、仕方なく条件を飲んだ。」

「今だから言えますけど、聡史君が作ってた曲、それまでの曲になかった温かさがあって、好きでした。」

それは難解な旋律にしないこと、奥行きと幅を持たせること。曲作りにおいて、聡史はこの2つを常に心がけていた。一小節に細かな音符を詰め込まず、音の高低を激しくしない。にもかかわらず、単調で似たような曲調にならなかったのは、彼の感性がよかったからだろう。


「聡史が初めて達樹から曲をもらったとき、作曲方針について進言したそうだよ。喉を潰してもいいのかって。」

達樹は聡史と対照的に、難解で激しい曲しか作らなかった。加えて、曲の一部に必ず無理な高音を入れていた。にもかかわらず、喉に負担のかかる歌い方をしていた。
最悪、声が出なくなるかもしれない。聡史はそれを危惧していたのである。

「それを達樹は聞き入れなかった。でも、聡史が忠告した通り、解散する頃にはキーを下げなければ、まともに歌えなかったそうだ。この間会ったとき、聡史はそれを一番悔やんでたよ。」

「私もそれは気にしてました。辛いものは好きだし、お酒も煙草も辞めないし。たまに喉を嗄らしていたし。聡史君も心配してたんですね。」

デビュー後、作曲は基本的に聡史が担当した。それは周囲にいた人間が決めたことで、彼等はそれに従うしか道がなかった。

「周りはわかっていたんだろうな。一番の要になるのは聡史だって。それでも、マンネリ化を防ぐために、聡史以外にも曲は書かせてたって。」

「それじゃあ、あの、窪田さんも?」

直人はわずかに押し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。

「恭平はデビュー前に辞めた。その代わり、事務所が年の近い、新しいギタリストを用意したんだ。」

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夢のアト - 5

「正確には、辞めさせられた。」

「一体、何があったんですか?」

興奮気味に問いかけたものの、里緒にはある程度予測がついていた。
里緒自身、恭平に対してあまり好意を抱いてはいなかった。
むしろ、距離を置いた付き合いをしていた。

「恭平の奴、デビューする前に、清純派のアイドルとしてテレビに出てた娘と写真を取られたんだよ。アイドルと言われてる人間が、普通出入りしない場所でね。」

「それってスポーツ新聞やテレビの芸能ニュースで槍玉に上げられて、しばらく休業しちゃった娘ですよね?最近また見かけますけど。あれ、窪田さんだったんですか?」

直人は里緒の食いつきに戸惑いつつ、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと語り始めた。

「それ以外にも、別の娘との写真も見つかったからね。事態を重く見たスタッフが恭平を問い詰めたらしい。けれど、反省の色一つ見せないかった。それに、普段の素行の悪さもあって、解雇になったそうだ。一応、解雇を言い渡す直前にメンバーへ通達があったけど、誰も反論しなかったってさ。」

事実、恭平の素行の悪さ、特に女癖についてはファンの間でも密かな噂となっていた。しかし、ライブチケットを一番多く捌くのもまた恭平だったため、達樹ですら言い出すことができなかった。

彼は取り立てて顔が整っているわけでも、ましてや性格がいいわけでもなかった。それでも、彼に着いてくる女性は数多くいた。その中でも、付き合っているとしてメンバーにお披露目したのは数人。それ以外の子にはノルマを設け、本人以外の分のチケットも買わせていた。
最初は熱を上げていた女性達も、数ヶ月で恭平との縁を切っていった。
だが、恭平はどこからか別の女性を捕まえ、同じことをさせる。その繰り返しだった。

「私も散々言われたんですよね。女友達を紹介してくれとか。達樹から乗り換える気はないかとか。それが嫌で仕方なくて。達樹にも言ったんですけど、全然相手にしてくれなくて。」

里緒の脳裏に、過去の記憶が鮮明に蘇る。目の前のコーヒーを口いっぱいに含み、喉の奥に流し込む。
口元まで出かかっていた不快感を、全て押し戻したかった。

里緒の様子を察してか、直人はすぐさま話題を変えた。

「恭平の奴、目立ちたいだけで曲に見合わないアドリブなんて入れるから、ギターだけが浮いたこともあった。本来、ギターはドラムやベースが作るリズムに合わせなきゃいけないのに、ちょくちょく乱す。達樹は相当歌いにくかったと思うよ。」

そのことで、ライブ後に達樹と恭平が喧嘩しているのを幾度となく見た。そんな中、恭平抜きでコンテストに出場するようになる。恭平のパートは達樹がギターを担当した。コンテストに出るようになったのは、直人が抜けた後だったが、その頃からデビュー志向が強くなっていった。

「解散してから、聡史が事務所の人に聴かされた話。コンテストで目を付けたレコード会社の人がライブをこっそり見てたんだって。で、コンテストにはいなかった酷いギタリストがいたってことで、大変驚いたそうだ。」
驚いたその人は仲間に相談を持ちかけ、ライブにも連れて行った。リーダーである達樹にも事情を聞いた。
その上で、一つの結論を出した。

直人は一旦喉を潤おすと、真実を語り始めた。

「恭平も事務所に籍だけ入れておいて、デビューまでに何らかの理由をつけて切る。それで話がまとまっていたそうだ。」

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夢のアト - 6

「正直なところ、メジャーデビューするとは思っていませんでした。達樹、どんなに目上の人に対しても上からでしか人を見れないし。人の意見を力で捻じ伏せるし。内心、絶対音楽には向いてないだろうなって。」

里緒が過去に残したわだかまり。本人の前では怖くて口篭っていたこと。本人の目の前ではないが、当時伝えられなかった本音が、自然と口を突いて出てきた。

「それは俺も一緒だよ。だから、最後の最後までバンドを選ばなかった。俺達は音楽とは別の利害で一致してたからね。」

「え?」

「達樹は自分を売るための道具、聡史は自分の腕を試すための場、恭平は女を呼ぶための手段。それに、俺はストレス解消の時間だった。」

直人はコーヒーカップの中を見つめ、初めてバンドメンバーと会った日のことを思い出していた。
前任者は直人の1年先輩だった。彼の大学卒業と同時に、直人が受け継いだ。
就職先が決まり、卒業のためだけに興味のない講義を聴く直人にとって、ドラムは鬱憤を晴らす機会だった。
観客やファンには悪いが、中心に音楽のない集まりでは、それで十分だった。

「名は体を現すというけど、本当だった。"astray gear"ってさ。達也が音の響きだけで決めたらしいけど、直訳すると"道に迷ったギア"。歯車が俺達のことを指すのなら、俺達は最初からバラバラでよかったのかもしれない。」

「達樹、英語は全くできなかったから、未だに意味を知らないんじゃないですか。意味を知ったところで落ち込むことなく、とんでもない単語を拾ってきそうですし。」

「それもそうだ。俺もあれより酷かったら、理由をつけて逃げてただろうし。」

直人が微笑む。里緒にとって、初めて見た表情。ライブでも、ステージ裏でも、人前で笑うことはおろか、口元を綻ばせることすらなかった。
思わず、まじまじと見つめてしまう。

「どうしたの?何かついてる?」

「いえ、あの、直さんが笑うの、あまり見たことなかったから。」
動揺から、余計なことを言ってしまった。気まずい表情をする里緒を見て、直人の口角がわずかに上がった。

「聡史にも同じことを言われたよ。あそこは息苦しい場所でしかなかったからね。」

直前のステージ裏はともかく、終わった後でさえも、互いに気を許さない緊迫感があった。
曲の合間、達樹が喋る後ろで次の曲を終えたメンバーに笑顔も、ましてや彼の話に同調することもなかった。
ライブを見にきた客の中で、達樹以外の声を聴いた人は、果たして何人いたのだろうか。

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夢のアト - 7

ふいに直人は腕時計に目を落とす。

「もう少し話していたいんだけど、そろそろ次の客先に行く時間だ。つまらない話に付き合ってもらって悪かったね。コーヒーは僕のおごりだから、ゆっくりしていって。」

「こちらこそ根掘り葉掘り聴いてしまってすみません。」

準備を始める直人にあわせ、里緒も席を立つ。
続けてバッグの奥底に隠れてしまった財布を探す。

やっとの思いで財布を取り出したとき、直人は二人分のお会計を済ませ、外に出ようとしていた。
慌てて追いかける。

「やっぱりお代。」

「いいよ。誘ったの、俺だし。」

「・・・ごちそうさまです。」
深々と頭を下げる。

顔を上げたとき、優しく、温かな眼が飛び込む。

「それじゃ、転職活動頑張ってね。」

直人が進行方向を決める一歩を踏み出したその時、里緒の記憶の中にいた、直人の姿と重なった。

「煙草、辞められたんですね?」

「え?まだ1ヶ月も経ってないけどね。」
突然のことに直人は驚き、里緒を凝視する。

「これからまた仕事なのに、呼び止めてしまってごめんなさい。」

「辞める理由ができたからね。」
素っ気ない答えに、里緒は違和感を覚え、怪訝な顔をする。
一瞬、直人が照れ隠しをしているように見えたからである。

「半年前に結婚したんだ。それに、この間、子供ができたことがわかったからね。だから辞めることにしたんだ。」

「そうだったんですか!おめでとうございます。じゃあ、お相手は?」

無言で口元を綻ばせる直人を見て、里緒は自分のことのように喜ぶ。

「落ち着いたら、家に呼ぶよ。アイツも里緒ちゃんなら喜んで歓迎してくれるだろうし。」

再び、直人は時計の針を確認する。

「それじゃ。客先に遅刻するから。連絡先は変わってないから、もしよかったらメールして。」
それだけ言い残すと、足早に去っていった。

残された里緒は、すぐさま駅へと続く道を目視確認する。
それから、背筋を伸ばし、確かな足取りで一歩ずつ踏み出した。

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