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2008年6月

M A S K - 1


10分前。
時計を何度も確認する。
ビルの1階に構えるコーヒーショップ。

東京に出てきて初めて掴んだ、田舎娘だった頃からの夢。
最近になってその叶え方がわかった。

女優。
今はその他大勢の端役。
次は台詞のある役。
それから、主役の近くに現れる役。
ゆくゆくはエンドロールの先頭、もしくは最後に名を連ねる。
なれるのは、ほんの一握り。
絶対にその中に入る。


今日は、そのための大事な日。
事務所の人から、「オーディションに受かった」との電話。
主人公の同級生という設定。
漫画が原作になっているドラマ。
昔、読んでた。
確か、主人公を囲んで歩くうちの一人。

そんなことはどうでもいい。
台詞があって、出番があって、何より、エンドロールに私の名前が表示される役。
ようやく、その他大勢から抜け出せる。

そのことで呼び出された。
待ち合わせまで、あと5分。

体に緊張が走る。
携帯電話に連絡が入っていないかを確認し、周囲を見渡す。

まだ来ない。
アイスコーヒーに目を落とす。
席についてから、まだ一口もつけていない。
グラスの側面から水滴が流れるのを見やる。

もうそろそろ来てもいい頃なのに。


突然、背後から肩を叩かれた。

「幸穂じゃね?」

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M A S K - 2


振り向きそうになる首を自制する。

もう聞くことはないと思っていた声。

昔の私を知っている男。
私の行く手を何度となく阻み続けた男。

もう、切れたものだと思っていた。
まさか、こんなところにいるなんて。


「人違いです。」
体の奥底から搾り出した嘘。


「は?何馬鹿言ってんの。深川幸穂だろ。」
「違います。」
「じゃあ、何て名前だよ。」
「藤下ユヅキ。」

芸名。上京後の、今の私の名前。
決して偽名ではない。


「嘘付くなよ。俺の女だった癖にさぁ。」
誰もいない、目の前に座り、嫌らしい目を近づけてくる。
思わず顔を横に背ける。


付き合っていたことはあった。
けれども、半年と持たなかった。
原因は、私が疲れたから。
次第に壊れていくのが怖くて仕方がなかったから。


「次は漫画の登場人物で偽名か。幸せの穂で『サチホ』が本当の名前だろ。」

事務所の人と考えた、大切な名前。
優しい月でユヅキ。
それから、苗字は母親の旧姓。
思いつきで名乗ってなんかいない。

俯き、閉じた唇に力を込める。


「じゃあさ、証拠は?」

「え?」

「だから証拠。あんたの名前が藤下ユヅキさんって証拠だよ。」

「そんなもの、持っているわけ・・・。」
バッグの中に入っている、保険証、銀行のカード。
全て、本名。
この場で出せるわけがない。


「わかりやすい嘘なんか付くんじゃねぇよ。」

テーブルの脚を蹴り付ける。

はっと息を呑む。
動悸がする。
鏡を見るまでもなく、顔が青ざめていくのがわかる。

誰か助けて。

その時、バッグの底から、携帯電話が小刻みに揺れた。

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M A S K - 3


バッグを抱えたまま、店内のトイレに向かう。
立ち上がった瞬間、伸びかけた腕が見えた。
しかし、私が店を出ないとわかると、その手を上に伸ばし、左右に軽く手を振った。

席に戻ったら捕まえる気だ。
どこまでの嫌な男。

都合よくというべきか、トイレに先約はいなかった。

ここならあの男は入ってこない。
ドアの鍵を閉め、誰も入ってこないことを確認してから、バッグの底に手を伸ばす。
見覚えのある番号に藁をも縋る気持ちでボタンを押す。

「待たせちゃってごめんね。」
聞き覚えのある声に、安堵の涙を流す。

「実は・・・」
声を詰まらせながら、状況を説明する。
待ち合わせに指定された店とはいえ、あの席には戻れない。
とはいえ、あそこは入り口に近い席。
あの男に悟られずに外にでるのは不可能。


「助けて、ください。」
一時的な密閉空間の中で、救いの手を求める。

音が途切れる。
不安と期待が交じり合い、より心拍を上げていく。
鼓動で胸が痛い。

「もう少しで着くから、もうちょっとそこで持ちこたえてくれない?」
返事をする間もなく、一方的に通信は途絶えた。

入れ替わるようにして、ノックする音が耳を劈く。
ここには長くいられない。

考えを張り巡らせる。
どうすれば自然に出られるのか。
どうすればあの男から逃げられるか。


不意に鏡を見た。

涙で崩れた化粧。
女優の顔じゃない。
こんな顔では外に出られない。


頭の中で絡まっていた糸が一度に切れた。

そう。
ワタシは女優。

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M A S K - 4


高校に通っていた頃から、演劇の世界にのめりこんでいた。
部活はもちろん、バイト代を貯めては、観劇のチケット代につぎ込んでいた。

あの男、もう、名前すら思い出したくない、私の中での最大の汚点と出会ったのは、高3の春。
バンドを組んでて、音楽の専門学校に通ってるとも言っていた。
でも、ライブのチケットを強引に売りつけてくるばかりで、今思えば、恋愛の対象というよりは、ただの金ヅル。
事前に予定が入っていることを伝えていたとしても、である。

おかげで、何度観たかったお芝居をキャンセルしたことか。


最初は泣きながら理由を繕っていたが、最後は完全にシカトしていた。


秋、最後の文化祭が近づき、練習に熱が入るに連れて、会うのも、連絡も取るのも億劫になってきて、文化祭の公演を前にして自然消滅した。


当時、仲良くなったバンドのメンバーを通じて、夏休みが終わった頃から他の女に乗り換えたことを知った。私はそれを自然に受け入れた。周囲の心配をよそに、あの時の私は酷く落ち着いていた。

おかげで、尾を引くことなく、夢にのめり込む事ができた。


そして今は新しい名前と女優という肩書きを盾にして演者の道を歩く。
あの男のいない、華やかな世界の上に立つ。

覚悟を決めて化粧ポーチを取り出し、部活仲間から教わったメイクを自分に施す。

マスカラとアイラインで目力を強調。
艶のある赤の口紅で、年上の女に近づく。


最後に鏡で全身を確認すると、颯爽と外に飛び出した。

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M A S K - 5


「待てよ。」

レジを通過する直前で捕まった。
左肩に指が食い込む。

「お前の席はこっちだろ?」
右手の人差し指で示されたのは、さっきまで座っていたあの席。
しかも、アイスコーヒーが半分減っている。
気持ち悪い。

敢えて言葉にはせず、冷ややかな視線を飛ばす。

「悪いねぇ。口つけてないみたいだから飲んじゃった。」
"幸穂"ならその場で謝罪を要求する。
今は藤下優月という別人。
赤の他人に感情をむき出しすることに価値はない。

ワタシは女優。

「どうぞ、ご自由に。」
グラスに対して一瞥をくれた後、肩にかかった掌を振り払う。

「何するんだよ。なぁ、昔は一昼夜を供にした仲だろ?」
よくも抜け抜けと。実際、夜遅くまで一緒にいたのは、ライブの打ち上げの時だけ。
二人きりだったのは、休日の昼間しかなかった癖に。
でも、この場では初対面の人違い。

ワタシは女優。

「一昼夜・・・ねぇ。職業柄、色々な男と昼夜を問わず会っているの。仮に貴方と顔を合わせたことがあったとしても、いちいち覚えてなんかいられないわ。」
右足を踏み出す。
続けて左足も前へ運ぼうとした瞬間、体のバランスが崩れた。

その場に倒れこむ。
何が起こったのか、頭の整理がつかない。
上体を起こして見上げる。

男の腕が真っ直ぐに伸びている。
突き飛ばされた。

傍にいたアルバイト店員は、何が起こったのかわからず、オロオロしている。

「いい加減にしろよ。認めろよ。俺をバカにするなよ。」

忘れていた。
あまりにも思い通りに行かないと、癇癪を起こす。
当時、バンドのメンバーに当たることさえあった。

逃げなきゃ。
でも、ここで事務所の人が来るまで何とかして時間を稼がなければ。
こんな些細なことで、今までの努力を棒に振りたくない。
私は今の好機をすがり付いてでも守る。
そのためには手段を選んでいられない。

ワタシは女優。

「人目も気にせずに力で制圧?貴方がしたいのは、嘘の自白強要?」
ゆっくりと立ち上がり、髪を掻き揚げる。
随所に残る痛み。我慢すれば何ともない。

「通報、しますよ。」
「やれるものならやってみろよ。その名前が本当ならさぁ。」
逆効果。怯むどころか、さらに吠える。
本当に警察に連れて行ったら、何が何でも本名を名乗ることになるだろう。
ちょっとした脅しのつもりが、完全に不利になってしまった。


形勢逆転の一手が出てこない。
顔がこわばる。

正面にいる、あのにやけた顔つきから目を逸らしそうになる。
逸らしたら、真実を認めたことになる。
音を立てて崩壊する未来は絶対に嫌。

それを突きつけられるのが怖い。

「そこまで。入り口でウチの子いじめるの、やめてくれない?」
入り口の自動ドアにスーツ姿の男。

やっと来てくれた。

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M A S K - 6


「お待たせ。ユヅキちゃん。前の仕事がおしちゃってさぁ。」

「井口さん!」
防衛本能から、現れたばかりの井口に抱きつく。
腕を相手の背中に絡め、頭を埋める。

「おい、その女をこっちに渡せよ。」

背後から醜い叫びが聞こえる。

「本当にあの人、知らないんです。誰かと勘違いしてるみたいで。」
腕に力を入れ、井口の体を少し圧迫する。
今さっきされた仕打ちを恐怖に変換し、肩を震わせる。

「だって。しつこい男は嫌われるよ。」
井口の腕が後ろに回り、きつく押さえつけられる。
あの男に見せ付けるためだけの、即興の恋人。

「そういえば、君、ちょっと前にゴシップネタになったよね?売り出し中の子に手を出したとかでさ。」

え?
声が漏れそうになるのを必死で堪える。

店内の、他の客に聞かせるつもりなのか、わざと大声で続ける。

「君がいたバンド、メジャーデビュー寸前だったってのに、君のスキャンダルのせいで全て白紙。苦肉の策で、君だけクビで、バンドはめでたく先日デビュー。」

知らなかった。あの男の方が先に芸能界の足がかりを作っていたなんて。
目指す方向が違うとはいえ、同じ世界にいたなんて。
脳内に落雷が落ちたかの衝撃。体が硬直する。

「他にも浮いた話は数知れず。本業はサッパリな癖してさ。」

地元にいたときからそうだった。他のメンバーの調和を乱す音。
ギター担当だっただけに、目立つことだけは忘れていない。
あの男が目立つ度に、少しだけ見えたメンバーの苦い顔が思い起こされる。

「それとその女とどういう関係があるんだよ。」
大声で喚き散らす。
まるで親の言うことを聞かない子供のよう。
たった数分のことなのに、第三者が介入するだけで、こんなにもつまらない男に成り下がるなんて。

どうして高校時代の付き合う前に見抜けなかったのだろう。


「どういうって、僕の仕事は君みたいな男から女の子を守る関係。」
「それじゃ、こいつも。」

「そういうこと。それじゃ。」

井口は私の掌を握ると、店の外へと駆け出した。

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M A S K - 7


「さっきの男、案外小心者なのかもよ。虚栄心で動いているっていうかさ。」
井口の運転する車。近くの路肩にひっそりと止まっていた。
途中、何度か振り返ったけれど、追いかけてくることはなかった。


「あいつがまだバンドに所属していた頃、一度だけ仕事で観にいったことがある。」
しばらくして、独り言に近い語りかけが始まった。
エンジン音にかき消される声を一心に拾い集める。

「あそこまで空気を読まない演奏、初めて聴いたよ。他のメンバーはいい演奏してるのにさ。」

昔、地元のライブハウスで観ていたとき、同じ時間に出ていた他のバンドのファンの子が皮肉ってた。

「あのバンドのギター、演奏は素人以下だけど、パトロンが多いからチケットだけはさばけるんだって。」
「だからメンバーも手放さないんだー。そこまでしなくても十分集客できるのにね。」

あのときほど惨めな気分になったことはない。
とはいえ、毎回強引に売りつけられる現実から、それを否定する勇気を持つことができなかった。

「もし、ウチの事務所なら、最初から彼以外のメンバーで契約したかな。」
不快でしかない記憶に割り込むようにして、現在に引き戻される。
さらりと言いのけられた一言に、毒が見え隠れする。
しかし、全く冗談に聞こえない。大方、事実なのだろう。


「そうですか。私も、もしあの男と同じ事務所だったらと思うと、背筋がぞっとします。」

助手席の窓を流れる風景を眺める。
青空の中に、綿菓子のような雲がまばらに見える。

気を紛らわすにはちょうど良い。
目的地に着くまで、何も語りたくない。
あの男のことは何一つ思い出したくない。私にとっては今が一番重要なのだから。


「あの男、本当は知り合いなんだろ?」
突然の問いかけ。鋭い槍を喉元に突きつけられた気分に襲われる。
狙っているのか、何気なくなのか、全く読めない。

知り合いどころか、あの男の彼女だった事実は消えない。
ここで本当のことを話したら、井口を騙すことになる。

でも、それは過去の話。
深川幸穂が背負うこと。

今は藤下優月。


ワタシは女優。

薄っすらと笑みを浮かべて答える。
「いえ。藤下優月の知り合いにあのような男はおりません。」

「そう。」
井口の口元が綻んだ。そんな気がした。


二人を乗せた車は大通りを一気に加速し、ビルの隙間へと消えていった。

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