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あの日から数週間。
リンことを考える暇もなくなっていた。
夜9時。テレビに電源を入れる。毎週、惰性で見ているドラマ。
ありがちな展開の恋愛ドラマ。けれども、不思議と欠かさずチャンネルを合わせている。
開始早々、玄関のチャイムを連続で鳴らす音が聞こえてきた。
それから、ドアを何度も叩く音。
酔っ払いが隣の家と間違えているのだろうか。
1分、2分。音が止む気配がない。
テレビの音量を落とし、身を潜める。
突然、音が止んだ。
やっと間違いに気づいたのか。体内に溜まった息を、一気に吐き出す。
少しずつ、テレビの音を復活させ、部屋の中に日常を取り戻す。
画面がCMに切り替わり、恐る恐る、玄関に近づく。
忍び足で、音を立てずにゆっくりと。
扉に手を当て、左目を瞑り、覗き穴に右目を寄せる。
左から右へと、目を動かす。
何も映らない。
よかった。
安心できたところで、踵を返す。
その瞬間、床が軋んだ。
「やっぱりいるんだろ?」
聞き覚えのある声。
疑いの眼で、もう一度覗き穴から外の様子を探る。
やはり誰もいない。
ドアノブのつまみを直角に傾ける。
チェーンがかかっているから、きっと、大丈夫。
ドアノブに手を掛けた瞬間、ひとりでにドアが開いた。
思わず息を呑む。
「ほら、いた。」
10cm程度の隙間から顔を覗かせたのは、リンだった。
シャツや手、顔に赤黒い染みを滲ませ、微笑んでいる。
瞬時に目を瞑り、首を傾ける。声にならない小さな叫びが、喉を通過する。
左足が一歩だけ下がる。右足は硬直して動かない。
「ねぇ、ここに入れて。」
隙間に腕を通し、左手に持っていたものを広げる。
身に着けていたはずの首輪。金具の部分がつながったまま、別の箇所で途切れている。
徐に、そして片方ずつ目を開き、リンの首に視線を合わせる。
薄暗い電灯に照らされた、白く、痣の残る首に絶句する。
「逃げてきたんだ。彼女と喧嘩しちゃってさ。」
恐怖で足が竦む。ドアを閉めたいのに、手に力が入らない。
「首輪外すときにてこずっちゃってさ。自分で留めた癖に、外すときはナイフ使うなんて思ってもみなかったよ。」
手先には痛々しい傷跡。それを隠すことなく、口元を綻ばせたまま、こちらを見つめている。
ここで彼を通したら、間違いなく自分の身が危ない。
鍵なんて、開けなければよかった。
恐怖と後悔で頭が錯乱する。
「チェーン、外してよ。傷の手当だけでもさせて。」
甘ったるい声で囁く。内に秘めた狂気を隠して、弱い自分を演じているかのよう。
化けの皮が剥がれるのを、押さえているようにも見える。
この前は彼の言うがままになっていたが、今は違う。
ここは自分の家。何としてでもリンに飲まれてはだめだ。
「ダメ。前みたいに帰って。」
「無理だよ。俺、今ノラだし。」
膠着状態。強引にドアを閉めようとしたところで、彼には適わない。
もしそれができるのなら、あの時手を振り払って逃げていた。
力で適わないなら。
「・・・警察呼ぶから。」
声を振り絞る。あまり大事にはしたくないが、いざとなったら助けを求めるしかない。
「呼べば。どうせ、男女の縺れとして相手にされないからさ。」
いつの間にか、隙間に足を踏み入れている。これではドアを閉めることができない。
それにしても、一向に動じる気配がない。もしかしたら、過去に同じことをしているのかもしれない。
尚更、彼に負けるわけにはいかない。
「名前以外何も知らない相手でも?」
感情に任せて吐き出す。
「でも、僕はキミの家を知ってる。」
「私は"リン"という名前以外何も知らない。」
頭で考えるよりも早く、息に乗せてぶつける。少しでも止まったら、彼の思惑に乗せられる。そうなることが怖い。
「通してくれたら何もかもを教えてあげるよ。」
この状況を楽しんでいる。少なくとも、余裕と自信に満ちている。
この局面を打破するための、最後の手段。一瞬だけ、頭の中を空にする。
しっかりと彼の両眼を見やる。
「私の名前を知らなくても、同じことができる?」
「え?」
彼の言葉が詰まる。好機。一気に畳み掛ける。
「ケイはあの日別れた男の名前。何も知らない男に本名教える程、私も馬鹿じゃない。」
「あの時、キミは楽しんでいたじゃないか。」
「それは思い込みでしょ?あの日、強引に連れ回されて、ちょっとでもつまらない素振りをしたら何が起こるかわからないから、作り笑いしてあげただけ。本当は嫌で仕方なかったんだから。」
自分でも嘘とも本当とも区別が付かない。隣人に聞こえてもかまわない。ただ、彼を消し去りたかった。
「・・・そう。」
力を失った彼の手足は、ドアの隙間をするりと抜けていった。
瞬時にドアを閉じ、鍵を閉め、奥の部屋へと走った。
部屋に戻ると、付けっ放しにしていたテレビが、真っ先に視界に飛び込んできた。ドラマは終盤に差し掛かっている。画面の中の温かな展開に嫌気が差し、スイッチを切ると、ベッドの中に潜り込んだ。
今度は音がしても、絶対に出ない。だから、もう来ないで。
時折外から響く小さな音に怯えながら、眠れない夜を過ごした。
それから1ヶ月後、私は別のアパートに引っ越した。
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