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2007年11月

浮クチカラ

潜れ。


本能の赴くまま。深く、深く。
左右の肺一杯に吸い込んだ息が続く限り。


目指す場所はただ一つ。
そこは何人も行き着いたことがない。
一度知ってしまったら、また訪れずにはいられない。
危険は百も承知。
害はない。しかし、依存性は高い。

底に辿り着く。
一点の曇りもない無機質なところ。
聖域という言葉がふさわしい。
指先で軽く撫ぜ、そっと唇を近づける。

これでここに自分が存在した証拠を体に刻めた。

全身から力を抜く。
足元から膨れ上がる斥力に身を委ねる。
無重力に似た感覚。
もし人間に浮遊力が備わっていたとしたら、それに近い経験ができたかもしれない。


水面が近づく。
淡い光を反射しているのが、裏側からでもよくわかる。
腕を目一杯に伸ばす。
もう少し。あと少し。

指先が水面を付き抜け、穏やかな波を乱す。
続けて顔を突き出し、腹の底から酸素を取り込む。


仰向けになり、胸を空気に晒す。
小波に背中を沿わせる。
心地よい揺れに任せて漂う。

昨日の不満や明日の心配で侵食された脳を空にする。
悩むことを止めて、ゆったりとした時の流れを体感する。


もうすぐ空が橙に染まる。
その前に、もう一度沈みにいこう。

R / I / N  - 1

「どうして泣いてるの?こんなにいい天気なのにさ。」
突然声をかけられ、涙を拭うことも忘れて反射的に顔を上げる。
自然と目が合う。ベンチに座っている私に対し、しゃがみ込んだ姿勢から上目遣いにこちらを見ている。
童顔の、今時な姿の青年。
けれども、革製の首輪をしているのがとても気になる。おしゃれのつもりなのだろうか。

「あ、もしかしてふられた?」
図星。今さっき、別れを告げられたばかり。

「浮気が本気になったから別れてくれ」
だって。
そんなの、あっさり承諾できるわけがない。
久しぶりに雲ひとつない秋空が広がった休日。朝からメールで呼び出されて、1ヶ月ぶりに逢えるのが嬉しくて、買ったばかりのワンピースを着ていったのに。一言も返せないうちに、彼は私の前を去っていってしまった。
そのまま背後にあったベンチに座り込み、泣き崩れたまま今に至る。

せっかく記憶の底に埋めて栓をしていたのに、彼の一言で全てが飛び出す。
頭の中で先ほどの出来事が完全再現される。
目頭に涙が溜まる。次々と噴き出すそれを制御することなんて、とてもできない。

「泣き顔もかわいい。」
堰を切って流れる涙。化粧が崩れ、あられもない顔を曝け出す私。
それを見て、彼は無邪気な笑顔で応える。

「ねぇ、こんなところで泣いてるってことは、この後何もないんでしょ?それなら俺と遊んでよ。」
手首をつかまれる。強い力。手を引き戻すこともできないまま、腰が浮く。
もつれる足をかまうことなく、彼は堂々と歩道の真ん中を歩き出した。

「ね、ねぇ。」
「俺のこと、リンって呼んで。君は?」
「私は・・・、ケイ。」
完全に彼のペース。相変わらず力を緩めようとしない。
目に映る景色と記憶が結びつかない。
どこに連れて行かれるのだろう。何が起こるのだろう。
怖い。早く解放されたい。
不安で胸が一杯になる。

「逃げないから、いい加減に手、離して。痛いんだけど。」
「もうちょっと、我慢してくれる。」

無言で歩き続けたまま、大通りを縦断する。一駅分は進んだだろうか。
彼の歩調にあわせるのが辛い。足枷を填められたよう。まだ着かないのだろうか。
一体どこに向かっているのか。何かされるのではないか。

繋いだままの手を、早く振りほどきたくて仕方がなかった。

R / I / N  - 2

「到着ー。」
そこは大きなゲームセンター。壁やマシンの塗装が剥げていない。できたばかりなのだろうか。

「ほら、こういうときってスッキリしたいじゃん。」
手を引っ張る。込み合う店内の中を、人ごみを押しのけて進んでいく。
人にぶつからないように気をつけてはいるが、たまに肩が触れる。私だけの責任じゃないのに、ひたすら謝る。
どこまで奥に進むのだろう。

「この辺に置いてあるの、この店しかなくてさ。」
目の前で見せられたのは、一台のパンチングマシン。
呆然と立ち尽くす私の右手にグローブが装着される。

「何も考えずに打ってみて。」
そっと耳打ちし、100円玉を入れる。

躊躇い、わずかに後ずさる。
絶対に敵わない相手を前に絶望して、立ち尽くすことしかできないボクサーになった気分。畏怖とは違う何かが、体を動かすことを拒む。

「ほら、構えて。それから、真っ直ぐに腕を伸ばすだけでいいから。」
その声につられて、テレビで見たボクシングのスタイルを真似る。
頭から全てを消し去り、右手に勢いをつけて真っ直ぐに振る。
しかし、ウレタンの中心をはずれ、思うように記録は伸びずに終わった。

「あぁ、残念。」
淡々とした動作で100円玉を追加する。

「それじゃ、もう1回。」
耳元で声が聞こえる。それにあわせて、腕を振る。スコアが少し上がる。

「やった。」
思わず声が漏れる。

「おめでとう。記念にもう1回。」
100円玉の落下音が引き金となって、拳を突き出していた。
彼の手元から小銭がなくなるまで、何度も、何度も。

ようやく彼の手から100円玉が尽きたとき、私の右手は思い通りに動かなくなっていた。

「それじゃ、次。」
店を出て、次は駅前に連れて行かれる。そこではショッピング。話題の映画を鑑賞。そして、ディナー。


「じゃ、帰ろうか。」
その言葉が出たのは、日付が変わるまで後2時間を切った時だった。

「家まで送っていくよ。」
いつもなら断る算段なのに、このときも彼に強く腕を握られていた。
断ることもできず、結局家の前まで来てしまった。

アパートの、私の家の前。

「私の家、ここだから。」
「あ、そう。」
パッと手を離す。潔い所作が怖い。

すると、
「俺、帰るから。待っていてくれる女もいるし。」
首輪を指差し、無邪気に笑う。

「それじゃあね。」
ヒラヒラと指を動かす素振りを見せると、名残惜しむ素振りをすることもなく去っていってしまった。
彼の姿が見えなくなったのを確認し、家の中に入る。

一体、彼は何者だったのだろう。
酷く落ち込む出来事があったはずなのに、その夜は1つの大きな疑問が頭の中を駆け巡った。

R / I / N  - 3

あの日から数週間。
リンことを考える暇もなくなっていた。


夜9時。テレビに電源を入れる。毎週、惰性で見ているドラマ。
ありがちな展開の恋愛ドラマ。けれども、不思議と欠かさずチャンネルを合わせている。


開始早々、玄関のチャイムを連続で鳴らす音が聞こえてきた。
それから、ドアを何度も叩く音。
酔っ払いが隣の家と間違えているのだろうか。

1分、2分。音が止む気配がない。
テレビの音量を落とし、身を潜める。

突然、音が止んだ。
やっと間違いに気づいたのか。体内に溜まった息を、一気に吐き出す。
少しずつ、テレビの音を復活させ、部屋の中に日常を取り戻す。


画面がCMに切り替わり、恐る恐る、玄関に近づく。
忍び足で、音を立てずにゆっくりと。

扉に手を当て、左目を瞑り、覗き穴に右目を寄せる。
左から右へと、目を動かす。
何も映らない。
よかった。
安心できたところで、踵を返す。

その瞬間、床が軋んだ。

「やっぱりいるんだろ?」
聞き覚えのある声。
疑いの眼で、もう一度覗き穴から外の様子を探る。
やはり誰もいない。

ドアノブのつまみを直角に傾ける。
チェーンがかかっているから、きっと、大丈夫。

ドアノブに手を掛けた瞬間、ひとりでにドアが開いた。

思わず息を呑む。

「ほら、いた。」

10cm程度の隙間から顔を覗かせたのは、リンだった。
シャツや手、顔に赤黒い染みを滲ませ、微笑んでいる。
瞬時に目を瞑り、首を傾ける。声にならない小さな叫びが、喉を通過する。
左足が一歩だけ下がる。右足は硬直して動かない。

「ねぇ、ここに入れて。」
隙間に腕を通し、左手に持っていたものを広げる。
身に着けていたはずの首輪。金具の部分がつながったまま、別の箇所で途切れている。
徐に、そして片方ずつ目を開き、リンの首に視線を合わせる。
薄暗い電灯に照らされた、白く、痣の残る首に絶句する。

「逃げてきたんだ。彼女と喧嘩しちゃってさ。」
恐怖で足が竦む。ドアを閉めたいのに、手に力が入らない。

「首輪外すときにてこずっちゃってさ。自分で留めた癖に、外すときはナイフ使うなんて思ってもみなかったよ。」
手先には痛々しい傷跡。それを隠すことなく、口元を綻ばせたまま、こちらを見つめている。
ここで彼を通したら、間違いなく自分の身が危ない。
鍵なんて、開けなければよかった。
恐怖と後悔で頭が錯乱する。

「チェーン、外してよ。傷の手当だけでもさせて。」
甘ったるい声で囁く。内に秘めた狂気を隠して、弱い自分を演じているかのよう。
化けの皮が剥がれるのを、押さえているようにも見える。
この前は彼の言うがままになっていたが、今は違う。
ここは自分の家。何としてでもリンに飲まれてはだめだ。

「ダメ。前みたいに帰って。」
「無理だよ。俺、今ノラだし。」

膠着状態。強引にドアを閉めようとしたところで、彼には適わない。
もしそれができるのなら、あの時手を振り払って逃げていた。
力で適わないなら。

「・・・警察呼ぶから。」
声を振り絞る。あまり大事にはしたくないが、いざとなったら助けを求めるしかない。

「呼べば。どうせ、男女の縺れとして相手にされないからさ。」
いつの間にか、隙間に足を踏み入れている。これではドアを閉めることができない。
それにしても、一向に動じる気配がない。もしかしたら、過去に同じことをしているのかもしれない。

尚更、彼に負けるわけにはいかない。

「名前以外何も知らない相手でも?」
感情に任せて吐き出す。

「でも、僕はキミの家を知ってる。」
「私は"リン"という名前以外何も知らない。」
頭で考えるよりも早く、息に乗せてぶつける。少しでも止まったら、彼の思惑に乗せられる。そうなることが怖い。

「通してくれたら何もかもを教えてあげるよ。」
この状況を楽しんでいる。少なくとも、余裕と自信に満ちている。


この局面を打破するための、最後の手段。一瞬だけ、頭の中を空にする。
しっかりと彼の両眼を見やる。

「私の名前を知らなくても、同じことができる?」
「え?」
彼の言葉が詰まる。好機。一気に畳み掛ける。

「ケイはあの日別れた男の名前。何も知らない男に本名教える程、私も馬鹿じゃない。」
「あの時、キミは楽しんでいたじゃないか。」
「それは思い込みでしょ?あの日、強引に連れ回されて、ちょっとでもつまらない素振りをしたら何が起こるかわからないから、作り笑いしてあげただけ。本当は嫌で仕方なかったんだから。」
自分でも嘘とも本当とも区別が付かない。隣人に聞こえてもかまわない。ただ、彼を消し去りたかった。

「・・・そう。」

力を失った彼の手足は、ドアの隙間をするりと抜けていった。
瞬時にドアを閉じ、鍵を閉め、奥の部屋へと走った。

部屋に戻ると、付けっ放しにしていたテレビが、真っ先に視界に飛び込んできた。ドラマは終盤に差し掛かっている。画面の中の温かな展開に嫌気が差し、スイッチを切ると、ベッドの中に潜り込んだ。
今度は音がしても、絶対に出ない。だから、もう来ないで。

時折外から響く小さな音に怯えながら、眠れない夜を過ごした。
 
 
 
それから1ヶ月後、私は別のアパートに引っ越した。

R / I / N  - 4

季節は巡り、再び訪れた乾いた空気と爽やかな青空の下で、私はベンチに腰掛けていた。

「また、ふられた?」
聞き覚えのある声に、顔をあげる。

「リン。」
忘れていたはずの情景が頭の中を駆け巡り、顔が強張る。

「安心して。強引なことはしないから。」
そっと語りかける。あのときのような邪気がないのはわかっているけれど、体、特に両腕は拒否反応を示す。
両手首を堅く体に引き寄せた。

「今は誰にも繋がれてない。」
首輪がはずれ、露になった白い首をここぞとばかりに見せ付ける。

「で、今さっき偶然に君を見つけたと思ったんだけれど。」
視線を少し落とす。その先に何が映っているのか、すぐにわかった。

「今度は君が誰かと繋がっているんだね。」
右手の薬指。
私は赤く染まった頬を髪で隠すように、小さく頷いた。


「ごめん、待たせた。」
遠くから耳に馴染んだ男の声が聞こえる。彼だ。脇目も振らず、彼に飛び込む。


「今、誰かと喋っていたみたいだけれど、誰?」
「人違い。」
「そう。」

振り向くと、リンの姿はなくなっていた。
脳裏に、彼の首輪がブツリと千切れる光景が浮かぶ。
実際にその瞬間を見たわけではないのに。

同時に、リンはもう私に逢いに来ない。根拠のない予感が体内を渦巻く。
わずかながら増殖する複雑な想いを押し隠し、肩を寄せ合う彼に、歩幅を合わせた。

水底の雫


アレがほしい。
コレもほしい。

1つ1つが手に入るたび、内面の水槽には水が溜まっていく。
望みが大きければ大きいほど、注がれる量も比例して多くなる。

『我慢』なんて、私にとっては辞書に埋もれた言葉。
ちょっと口に出すだけで、誰かが見つけてきてくれる。
皆私の言いなり。
届かないものなんてない。

水嵩が9分目を超えたら、一回り大きな水槽へと入れ替える。
全部捨てて、同じ水槽にまた溜めるなんて馬鹿げている。
どうせなら、もっと大きな水槽を一杯にしたい。


誰でもいい。私を満たして。
溺れる位。息ができない位。水槽から水が溢れる位。
もっと、もっと。


でも、いつも何かが足りない。
水槽の水は増え続けているというのに。

そんなときに囁かれたあの一言。

「君にはもう飽きた。」

未だに耳元に残っているあの声。
悦に入っていた私の気分を一気に粉砕してくれた。
他にもいろいろ言われたが、怒りと悔しさで全く覚えていない。

誰かに縋ることのどこが悪い。
私を満たせない男と縁を切ることのどこがいけない。
自力じゃなくても、最終的に私の手に収まることのどこが問題?


その時、温かな雫が頬を伝った。
その後も目頭から同じ経路を通って、次々と零れ落ちる。


この水源はあの水槽?
とうとう決壊したんだね。
これ以上溜めても溢れさせることも満たすこともできないのなら、全て流してしまおう。

人目を気にすることなく、精も根も尽きるまで泣きじゃくった。
声が枯れた後も喚き続けた。


最後の一滴が地面に落ちたとき、体は今にも宙に浮きそうな位、軽くなっていた。


あの日から、水槽は乾ききったまま、底が割れたままになっている。


何もすることがないときは、部屋の隅で蹲ったまま、何も考えずに過ごす。
あの瞬間から、あらゆるものを渇望する気力が生まれなくなった。


あれから、数ヶ月。
色々とわかったことがある。
眼に映るどんなものが手に入っても、一時の満足で終わっていたのは、一度たりとも自分一人の力で得ようとしなかったから。
もっと大きな水槽に移し替えたくなったのは、簡単に水を溜められる術を知ったから。
そして何よりも、私が誰かを満たせないのと同じように、私が溺れるまで完璧に満たしてくれる人なんて、この世の中にいるわけがないのだ。


水槽を取り替えた。
最初に意識したときよりもずっと小さな、金魚が数匹泳げる程度の大きさ。

水が入らなくても、水がなくなってしまってもいい。
今度は自分の力で溜めていく。

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