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2007年10月

strange class

あれは、秋晴れの爽やかな午後のことだった。

昼休み終了5分前を告げるチャイムが鳴り響く。
大急ぎで階段を駆け上る男子生徒が1人。
彼の名前は北見。この高校の3年生。
教室は校舎の最上階。次のチャイムまでに駆け込まないければ、遅刻扱いにされてしまう。
この時期は些細な行動が進学に影響する。教師は目を光らせ、生徒は神経を尖らせる。

最後の一段に到達し、そのままの勢いを保ったまま、廊下を駆け抜ける。
廊下にはわずかながら人の往来はあるが、見たところ教師はいない。
全ての扉が閉じられ、教室の中を窺い知ることはできないが、騒ぎ声が聞こえる。おそらく先生は来ていない。
まだ間に合う。

彼の席は一番前の真ん中。
教室の前扉を勢いよく開け、両足を板張りの床へと踏み出した。
しかし、2歩進んだところで動きを止める。
扉の先は信じがたい光景が広がっていた。

教室の窓際に逃げまとい、怯える女生徒と、それを追い詰める二人の男。
白目を剥き、蒼白した顔をしているが、同じクラスの山川と藤田だ。
男は手当たり次第に物を投げている。
あまりの非日常的な展開に、北見は扉口で突っ立ったまま、事の成り行きを見ていた。
襲うには敵の数が多すぎると悟ったのか、しばらくすると、彼らは諦めて教室の後ろ扉から出て行った。

すかさず、後ろ扉付近にいた数人が扉をピシャリと閉める。
その音を聞いて北見は我に返り、思わず背中にある扉を閉める。

簡易的な閉所空間になったことで、中にいた者が落ち着きを取り戻す。
興奮が収まったところで、北見が口を開く。
「一体、何があった?」

全員が彼を味方と悟ったところで、銘々が事の顛末を口にし始めた。
話をまとめると、原因はわからないが、昼休みに教室にいなかった数人が教室に帰ってくるなり、おかしくなりだしたらしい。
その後、すぐさま廊下の徘徊を始めた者もいれば、先ほどの彼らみたいに襲ってきた者もいる。
壁伝いに聞こえてくる悲鳴から、どうやら、他のクラスでも同じことが起こっているようだ。
北見が教室に入る前、廊下に不審な人影はなかった。今は他の階や校舎に行っているということか。


すると、青ざめた顔をした代田がなだれ込むようにして帰ってきた。
「ソンビウィルスに感染した。」
「ゾンビ?」
「あぁ、1年の女共がそう騒いでんだよ。ゾンビみたいな形相だからって。」
震える体を押さえ込むようにして、自分の席に座る。
感染した代田を目の前にして、女子生徒を中心に教室は再びパニックになった。

「打開策はないのかよ。」
後ろから誰かが叫ぶ。

「そういえば、どこかのクラス通りがかったとき、お茶かけたら正気を取り戻したって言ってた。」
弱弱しくなった声を振り絞り、代田が叫ぶ。
「それだ!」
教室中の声が揃う。

誰彼構わず荷物を開けると、飲みかけたペットボトル入りのお茶が出てきた。
中には進んで提供する者もいた。

片っ端から蓋をあけ、頭から浴びせる。代田の体はいろいろな種類のお茶にまみれた。
そして念のため、北見は最後の1つを代田に飲ませようと手渡す。
その時、代田と手が重なった。

「今、思ったんだけどさ、おまえどうして感染したってわかった?」
「奴らと手がぶつかったんだ。その時は何ともなかったけれど、2~3分位で気持ち悪くなってきて。そしたら、体の中に凶暴な人格が入ってきた感覚に襲われて・・・。」
「皮膚感染。」
傍にいた中嶋が口を挟む。

「畜生!」
慌てて、教室の向かいにある廊下の手洗い場へと駆け出す。お茶はすべて使い果たしてしまった。お茶をかけたときに手が濡れていたとはいえ、同じ症状が現れるのは時間の問題だろう。
幸い、廊下には誰もいない。
周囲に注意しながら、ハンドソープに手を伸ばす。
すると、遠くに徘徊を続けていた感染者が見えた。
襲われたときのことをシュミレーションする。皮膚感染とわかった以上、素手での攻撃は危険だ。何かあったときは蹴りで応戦か。教室に篭城するか。
迷っている間にも、北見と感染者の距離が近くなる。

だが、彼らは何かを呟いているようだった。
反対側に気を配りつつ、耳を済ませる。

「ラベンダーの匂い・・・。近づけない・・・。」

思わずハンドソープを見る。ラベンダーの文字。
急いで泡を落とし、両手を鼻に寄せて匂いが染み付いたことを確認すると、ハンドソープを片手に教室へと戻った。

「おい、コイツを手にかけろ。奴ら、ラベンダーが弱点だ。」

クラスの一人に投げる。
すると、ほぼ同じタイミングでゾンビウィルスに感染した、知らない顔の男子生徒が北見と逆側の扉から2人も入ってきた。
廊下で出くわしたのとは違う。おそらく別ルートからやってきたのだろう。

弱点がわかったこともあり、北見は率先して両手を前に突き出し向かっていく。
感染者達は顔を歪ませて後ずさり。
ハンドソープのコーティングを終えた同級生も、その効果を見て少しずつ加わってきた。
しかし、感染者達も助太刀要員として、次々と逆の扉から入ってくる。
万事休すか。


突然、北見の脳裏に昔流行ったノリの良い曲が頭を流れる。
反射的にそのまま口にする。
カラオケ好きな程度で、正直、熱唱する以外大してうまくはない。
中には突然気が狂ったのかと唖然とした視線を送る者もいた。しかし、一人、二人と同調してくれ、遂には大合唱となった。
次第に笑みがこぼれる。

全員にハンドソープが行き渡り、本格的に交戦が始まった。
物を投げる者もいれば、机の上から蹴りを食らわせる者もいる。
北見も例に漏れることなく、必死で応戦した。
この間、眼に映る光景がすべてスローモーション。脳内に流れるバックミュージックはさっきまで歌っていた曲。嘗てCDで聴いていたときと同じ音源が駆け巡る。


もう少しで追い払えると思ったその瞬間、窓から強烈な閃光が走った。


まぶしい!!


北見が眼を覚ますと、全員が床の上に倒れていた。
今まで気を失っていたようだ。

半身だけ起こし、しばらく様子を見ていると、周囲も序々に起き上がってきた。
遅れて、感染者達も目を覚ます。
身構えていると、どうやら正気を取り戻したらしく、
「ここは?」
「一体何が?」
と、口にし始めた。どうやらさっきまでの状態を全く覚えていないらしい。

その後、午後の授業はすべて休止となり、そのまま集団検診となった。
しかし、どの生徒にも乱闘で軽症を負った以外は異常は見つからず、そのまま大事を取って1週間休校となった。
最初に感染したといわれる生徒も、体育館で遊んでいたときに突然おかしくなったらしく、直接的な原因が見つかることはなかった。
休校になっている間、当局やマスコミがごった返していたようだが、何一つ掴めないまま、事件は闇に葬られた。
これは後日談となるが、お茶がワクチン代わりになったのは、別のクラスでは偶然にもラベンダー入りのお茶を持っている生徒がいたためらしい。代田自身はというと、ラベンダー成分の入ったお茶を飲んでもかけてもいない。強いて言うなら、正気を保っている間に塗りつけた両手のハンドソープだろう。後は、彼の精神力の強さと言ったところか。


あれから数ヶ月。
誰も、あの日のことを話題にしなくなった。
何時しか平穏な学校生活に戻っていた。
変わったことといえば、北見が愛用するポータブルプレイヤーに、あの時歌った曲が加わったこと位か。

今日もあと数分で昼休み終了5分前のチャイムが鳴る。
北見はあの曲を繰り返し口ずさみながら、階段を上っていた。

プラットホーム - 1

失敗した。
知人との、ちょっとした食事のつもりだったのに。時間を忘れて閉店まで飲んでしまった。
終電、間に合うかなぁ。

改札を抜け、ホームに続く階段を走り抜ける。
その間、男は電車が待っていてくれることを祈った。
最後の踊り場を回ったところで、発車のベルが聞こえる。つられて、足の動きが早くなる。
「あ、ちょ、ちょっと待っ・・。」

ホームに片足が着くのと同時に、一斉に扉が閉まる。
今、一番望んでいない光景。無情なことに、電車は次の駅へと走り出した。

いくら待ってもこの後の電車はない。それなら最後に改札を通った人まで待っていてくれてもいいのに。
特にここは地下鉄。ホームに着くまでにかなりの距離があるのだから、それ位の配慮を考えてほしいものだ。

遠くに消え行く電車を見送る。
同じホームを共有する反対側の路線は、既に今日のお勤めを終えている。
乗り遅れた不幸な人間は、きっと自分だけだろう。

完全に電車が見えなくなったところで、ホームを見渡す。
視界に飛び込んできたのは、ベンチの上で蹲る少年の姿。
見た目から判断して、15歳位か。帽子を深々とかぶり、黒いコートで全身を覆っている。
帽子とコートの間から覗く目は、逸れることなく反対側のホームを向いていた。

ちょうど背向かいにあたるベンチに腰を下ろす。
その間、少年は一瞥もくれることはなかった。


いつも以上に飲んだ酒のせいか、彼への興味が喉を突いて出てきそうになる。
ついに、背中越しに声をかけた。

「君、名前は?」
「・・・」

聞こえていなかったのか。
それとも、問いかけている相手が自分だと思っていないのか。

別の質問を投げる。

「誰を待っているんだい?」
「朝。」

まだ幼さの残る声。
答えに違和感はあるが、きっと自分と同じ境遇なのだろう。

この駅から家までは1時間以上かかる。駅を出たところで、他に帰る術も、どこかに泊まれるだけの金もない。
幸い、明日は特にこれといった予定もない。

いっそのこと、ホームで夜を明かすか。

プラットホーム - 2

硬く居心地の悪いベンチに座ったまま、時が過ぎるのを待つ。
いろいろ見渡しても、代わり映えすることのない景色。様々な角度から新たな発見をしようと試みたが、5分と持たず飽きてしまった。

立ち上がり、ホームの中間に立ち並ぶ看板を見て歩く。
大半は駅のお知らせやポスターばかり。しかし、イラストや写真が目立って、文字がほとんどない。これでは暇つぶしになんてならない。
自分が待っているホーム側の看板だけ見終わったところで、元のところまで戻ることにした。

少し離れただけなのにすっかり冷め切ってしまったベンチに座る。
すると、わずかながら、カタカタと震える音が聞こえてきた。
気配を悟られないように背後を見ると、体が小刻みに震えていた。
それもそうだ。
人の気配がなくなり、空気が冷える。厚着をしているつもりでも、少し肌寒い。
きっと、コートの下は軽装なのだろう。

目に付いたのは、時間に関係なく煌々と存在を示す自販機。その3段目には温かい飲み物が並ぶ。
財布に残ったなけなしの身銭で、それに等しいだけの温もりを買う。
それを2つ。

「寒いだろ?これしかないけれど、暖を取れよ。」
目の前に立ち、買ったばかりのコーヒーを手渡す。
少しだけ顔を上げたようだが、帽子のつばに遮られ、顔を確認することはできなかった。
2つ目を買ったとき、拒まれることも考えた。
その時は自分で飲んでしまえばいい。好かれようなんて心もなかったから、気楽に構えていた。

予想に反して、すっと袖口から指先だけを突き出す。
それから掠れた声で、
「ありがとう。」

意外と素直。
でも、コーヒーを受け取った爪が汚れていたのが気になる。実は何かに怯えていたのかもしれない。
とはいえ、理由を聞いたところで、自分には何もできないだろう。そこまで干渉する義理もない。
本当に聞いてほしいなら、いずれ彼から口を開くだろうし。

その後、何の対話もなく、それぞれがコーヒーの熱を取り込む音だけが響く。
最後の一滴が喉を通りかけたとき、ベンチが浮いた。
初めて彼が動いた。缶を捨てに行ったようだ。後姿に目を向ける。座っているときは気づかなかったが、コートの身丈が彼の体に全くあっていない。裾を引きずるように歩いていく姿が、彼が背負っている事情を代弁しているようだった。
ゴミ箱に缶が落ちたのと同時に、視線を線路に向ける。目が合うことに恐怖を覚えたからだ。

彼が再び腰をかけたのを見計らって、こちらも缶を捨てに行く。
ゴミ箱に缶をそっと落とし、足元に視線を落としながら、ベンチの指定席に戻る。

再び、長く退屈な時間。ホームをもう半周する気はない。かといって、荷物の中に気を紛らわすものなんて一つもない。
そうこうしているうちに、眠気が襲ってきた。
今、取られて困る程、財布に中身はない。他にも、売ったところで大金になるものなど持ってはいない。
そのまま、本能に体を任せた。

プラットホーム - 3

目が覚めた瞬間、時計に目をやる。
電車が来るまでもう少し。日の当たらない場所なだけに、体に朝が来たという感覚がない。
寝ぼけ眼のままふいに首を回すと、相変わらず彼は同じ体勢を保っていた。


程なくして、反対側のホームにこの日一番早い電車がやってきた。

「じゃあ、行くね。」

かすかに響く声。
振り向くと、停止線の前に立ち、目の前に扉がやってくるのを待つ姿が見えた。
扉が開く。彼は俯き加減に電車に乗り込むと、一番近くの席に座った。
ここでも背中越し。
結局、彼の顔はおろか、名前すら知ることはなかった。

発車のベルがなり、ゆっくりと電車が走り出す。
この先はたしか、何もない田舎町。
彼は一体どこに向かうのだろう。


男は少年を呼び止めることもせず、無言で別れを告げた。

Unlucky night

ただいま逃走中。
理由はよくわからない。

とにかく俺は走ってる。
それだけは確か。

中学、高校とバスケをやっていたから、走ることにはそれなりに自信がある。
大学入学と同時にやめてしまったけれど、まだブランクにはなってない(と思う)。


「待てぇーーーー!!」
一体何の恨みがあって、追いかけてくるんだ?
だいたい、今さっきあったばかりの奴にこんな目にあわされるなんて。

交差点に差し掛かり、迷うことなく左に曲がる。
そこは細い路地へとつながる十字路が連なる道だった。
あいつに見られる前にと、2つ目の道を左に曲がった。
その後、もう一度曲がったところで、息を殺して様子見。


何も知らない男は俺が路地に入ったことなど疑いもせず、まっすぐに突き進んで行った。
とりあえずは撒けた。


大きく深呼吸をして、ついさっきのことを思い出す。
本当なら今頃はサークルの飲み会のはずだった。

開始時間に少し遅れた俺。
主賓でもない俺のために取っておいてくれた席に座り、一杯目のビールを注文しかけたとき、
「おい、謝れよ。」

そう、あの男が言いがかりをつけてきた。
これが初対面。多分。いや、絶対。

既に酒を飲んでいるらしく、顔も赤ければ息にも独特の臭いがついている。

俺を含め、周りは瞬時に何かヤバイ展開になることを悟った。
その目は明らかに俺の顔を見てる。

「おい、今日の金はいいからとにかく逃げろ。」
その声で、両足が自分でも信じられない位のスタートダッシュを始めた。
その様子を見て、名前も知らない男まで追ってきた。
ぱっと見、20代後半から30代前半。俺なんかより体つきもしっかりしている。しかし、サラリーマンには見えない。どことなく動きやすそうな格好。
予想はしていた。けれども、後ろを振り返るのは怖い。

席を立とうとした何も関係のない客は、突然の展開に呆気にとられている。
他の客でにぎわう席と席の間をすり抜け、大急ぎで外へ。
たまにぶつかり、
「すみません。急いでいるもので。」
と、その人に届くように大声だけを残す。

ぶつかった人も最初は不快感をあらわにするが、すぐに事情を悟り、ときには
「兄ちゃん、頑張れよ。」
とまで言われる始末。

これが映画なら、その辺の椅子をなぎ倒して追っ手を阻むのだろう。
そんな都合のいい展開、そう簡単にその辺に転がっているわけがない。
きっと、『自力で逃げ切れ』との思し召しなのだろう。

唯一予想外だったのが、ドタドタとした足取りの割りに速いこと。
俊足とまではいかないが、油断はできない。

店を出た直後からギアをトップに持っていく。
幸い、昔ながらのガラス戸だったため、店内からの勢いを殺すことなく加速できた。

これは仕方ないのだが、扉は開けたまま、店の前の歩道を駆け抜けた。
あの男のことだ。ピシャリと閉めたところに突っ込んででも追いかけてくるだろう。
今の現状はもちろんのこと、ホラー映画のような展開なんて、もっと求めていない。

背中で感じ取れる気配や、歩行者の様子を見る限り、スポーツ経験者の俺とほぼ同じ速さのようだ。
本当に酒が入っているのかと疑いたくなる。
相変わらず、
「待てーーーー!!」
「そいつを捕まえろ!」
と、夜にもかかわらず周囲に喚き散らす辺り、素面でないことは確かだ。
声が上がる度に、俺に視線が集まる。バスケでいいプレイをしたときは最高の気分になれるのに、今は注がれる幾つもの目が気持ち悪くて仕方がない。

しかし、すれ違う人々も、この追いかけっこにかかわりたくないのか、一様にシカトを決め込んでいる。
俺だって、理由も知らないただの通行人に邪魔されたくもない。まして、助けを求める気なんてさらさらない。
はっきり言って、恥ずかしい。人気のないところに雲隠れしたい。


そして、今。
喉からは鉄の味、額から汗が流れ落ちる。
飲まず食わずで準備運動もなく久しぶりに動いたせいか、早くもスタミナ切れ。

こういうのを、『悪い奴に追われてる』というのだろうか。
悪い奴・・・?追われている理由もわかっていないのに?
あんな礼儀知らずな男の存在、記憶の片隅にも残っていないが、いやな思いはした人間よりされた人間の心に深く残るという。

もしその通りだとしたら、あの男に謝らなければならない。
しかし、一方的に謝るのは嫌だし、それ以前にあの男の必死の形相を思い出すだけでも身震いがする。


そうこうしているうちに、またあの声が聞こえてきた。
「どこにいったぁーーーー!!」
だから、近所迷惑だって。
これを治めるには、自ら目の前に出て行く他はない。それは逃げ場がなくなったときであって、逃げ切れる可能性あるうちは、とにかく疾走あるのみ。


ここに留まっているところで、捕まるのは時間の問題。
2、3歩軽くステップを踏むと、一気に駆け出した。

声が近づいてくる。
振り返ると、そこにあの男がいた。
悪夢再び。
少し休んだおかげで、少しはスピードが上がるかと思いきや、逆に落ちている。中途半端に休んだのが原因か。
しかし、相手も体力の消費が激しいらしく、先程のような快走ではなくなっている。

やがて、人気のない公園に突入した。
ここなら何を叫ばれても心配ないだろう。
見晴らしがよく、隠れる場所がないのが欠点だが。


男も後を続いてやってきた。

突然、思ってもみなかった言葉が飛んできた。
「俺が悪かった。」

急な展開に頭がついていけず、動きを止めて振り返ると、男が土下座していた。その場に近づくことはせず、動向を探る。
「あんたが知り合いの嫌な奴に似てただけなんだ。八つ当たりして悪かった。」
「は、はぁ。」
ただの人違いで俺は貴重な飲みの機会を失ったのか。
怒りを通り越して、開いた口がふさがらない。

「それだけのことで俺は・・・。」
そのまま地面に倒れ込む。コイツのせいで楽しみを失ったかと思うと、通り過ぎた怒りがまた戻ってきた。
無言のまま、相変わらず土下座を続ける男を睨む。座ったおかげでほぼ同じ視線。

「バイト先であんたによく似た年下の店長の愚痴を言っていたら、ちょうどあんたが現れたんだ。いや、本当に悪かった。」
走っている時と同じ声量が公園中に響く。周囲に人がいないのはわかっていても、改めてされると、ものすごく恥ずかしい。
何とも言いようのない恨みを込めて、再度眉間にしわを寄せる。
膠着した状態が続く。
男は俺と目を合わさないよう、必死に何かを画策しているようだった。

すると、
「そ、それじゃあな。謝ったからな。」
さっきまでのあれは演技だったのだろうか。男はその一言だけを残し、脱兎のごとく公園を飛び出していった。

名も住所も知らぬ男。これで去られては追いようもない。しかし、足にはガタが来ており、走るどころか歩く気力もない。
そのまま仰向けに倒れこみ、数分間休んでから、携帯電話で幹事の後輩に連絡を取る。

「もしもし、俺。こっちは終わったんだけど、合流していい?」
「先輩ですか?それがですねぇ、ラストオーダー終わっちゃったんですよ。この後二次会する予定ですけど、どうします?」
え?慌てて時計を見ると、俺が店に着いてから1時間が過ぎようとしていた。

「あ、それと・・・。」
俺が逃走劇を始めた直後、店主が飲みの席に駆け寄り、男のことを教えてくれたそうだ。
あの男は店の常連で、普段は虫も殺せぬ大人しさにもかかわらず、一度飲み出すと、客に絡む癖を持っているとのこと。
俺みたいに、何にも関係ない客に因縁つけることも珍しくなく、その度に男の連れが迷惑料と称して、被害に合った客の分も少し払っていくらしい。
今回のケースも、少し出してくれたと聞いた。

「わかった。でも、今日は止めとく。思いっきり走りすぎてもう無理。」
「了解です。大丈夫ですか?ゆっくり休んでくださいね。」
本気で心配しているのか、口先だけなのかわからないまま、電話は途切れた。
時々聞こえる会場のざわめき。遠い世界の出来事のようで、とてもうらやましく感じる。
これさえなければ自分もあっち側にずっといられたのに。

もう一度、今夜起こったことを整理する。
どう考えても、俺が追われる理由はない。
俺は全く悪くない。
なのに、全速力で走らされた挙句、公園で一人。

「馬鹿野郎!!」

雲がところどころに残る夜空に、腹一杯に吸った息に乗せて、一気に吐く。
頭の中をこの言葉が蠢いていて、外に出したくて仕方がなかった。


まだまだ収まらない。
「この馬鹿野郎!!」

これであの男にも届いただろうか。
少しは反省してくれただろうか。
これに懲りて、少しは酒を控えてくれるだろうか。

夜風が火照った体を覚ます。
頭を完全に冷やしたところで、俺は帰路へと着いた。

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